光琳の墓

今年のお正月に隅田川(向島)七福神詣の話を記事にしました。

向島百花園ミツマタ

その中で、言問団子の都鳥の図柄の皿に引っかかり、その初代作者である、三浦乾也が長命寺の寺域に窯を構えていたこと、乾也の「乾」は乾山からきており、入谷で亡くなった乾山の「伝書」を与えられた第六世乾山を継いでいたことを知りました。

三浦乾也

また、光琳、乾山を愛した江戸琳派の創始者である酒井抱一が、乾山の入谷の墓所を探し出し、顕彰碑を建てたことに加えて、乾山の「伝書」を入手し、乾也の師匠である西村藐庵(みゃくあん)に伝え、五世乾山を名乗らせたことも知りました。

言問団子

酒井抱一のことを何時から意識するようになったのは分かりません。事柄の前後の順は定かでないのですが、どちらかというと、歩いていて、偶々の出会いという感じで、以下のようなことがありました。

酒井抱一「夏秋草図屏風」重要文化財 二曲一双 紙本銀地着色

①美術館だったか、デパートだったか、記憶にないのですが、江戸琳派展を鑑賞、酒井抱一、鈴木基一に惹かれたました。

②千葉市美術館で、江戸期の美術の流れを辿る美術展がありました。鑑賞後、ショップで以前、「酒井抱一と江戸琳派の全貌」という大規模な江戸琳派展が開催されたことを知りました。図録集が素晴らしかったので。入手したかったのですが、残部がありませんでした。

③叔父の法事に訪れた新宿覚雲山浄栄寺に酒井抱一の絵「富士山に昇竜図」が飾られていました。本物は大江戸美術館に預けられており、レプリカということでした。

酒井抱一「富士山に昇竜図」(レプリカ)

その驚きを記事にしようと、浄栄寺を調べると、1616年、浄土真宗のお寺として、創建、善乗法師の開山による。

天明期に住職七世性海、八世壽徴(雪仙)が文人を保護し、江戸文化人のサロン的なお寺として機能していたようで、当時の戯作家、大田南畝(蜀山人)、江戸琳派の祖とされる、酒井抱一らがたむろする場であったようです。

浄栄寺山門

壽徴の子が抱一の養子(酒井鶯蒲)となり、画家となっていることからも濃密な関係が想起されます。

酒井鶯蒲《白藤・紅白蓮・夕もみぢ図》山種美術館
酒井鶯蒲《白藤・紅白蓮・夕もみぢ図》山種美術館

以下のような記述がWikipediaにあります。「酒井抱一が吉原で身請し、事実上の妻となっていた小鶯(妙華尼)の願いで、文政元年(1818)鶯蒲11歳の時に雨華庵に入る。」

妙顕寺山門
妙顕寺山門

④京都で妙顕寺、不審庵、今日庵、本法寺と歩いた後に、ヘッド写真として使用している「法橋光琳」の名が刻まれた妙顕寺光琳墓所跡の顕彰碑に遭遇しました。

帰宅してから調べると、光琳の墓は寺院の興亡にからみ、移設を繰り返したようでした。

尾形光琳墓所跡

京都妙顕寺の隣に塔頭泉妙院跡があります。この地は妙顕寺興善院旧跡地で、同寺は尾形家の菩提所で、住職は代々尾形家より出て墓所を守っていたのだそうです。

1716年、尾形光琳は、ここに葬られますが、興善院の後継が途絶えて無住になり、興善院は本行院に属しますが、天明の大火により本行院が焼失。1805年、尾形家の墓は妙顕寺の総墓所へ移されます。

妙顕寺

時を経た1815年、光琳没後100年に、酒井抱一は光琳の墓を捜索しましたが、見つけることが出来ず、本行院(興善院、現泉妙院跡地)跡に顕彰碑を立てます。

裏千家今日庵

其の後、本行院は再建され、泉妙院と合併、1962年、光琳らの墓石は、妙顕寺総墓所よりかつての埋葬地、泉妙院の地に戻され、抱一の顕彰碑とならぶことになった、と言うことのようです。

本法寺

自分が遭遇した顕彰碑はまだ新しく、抱一の顕彰碑のある泉妙院跡地と50mと離れてい無い場所にあります。この地が一時的に光琳の墓が設置されていた妙顕寺の墓所の場所にあたるということなのかと思います。

京都 東大路

⑤敦賀での最後の年、自分の仕事の最後のご奉公といえるのか、神戸にプレゼンテーションに出向きました。北野天満神社のサクラ、ジャズ倶楽部など神戸を楽しんだ翌日、酒井抱一出自の姫路に向かいました。

神戸ジャズ倶楽部 SONE

姫路城を堪能した後に、お城周辺を一周、もう一つのお目当て、姫路市立美術館を鑑賞。

ここは千葉市美術館で知った「酒井抱一と江戸琳派の全貌展」の大元の主催美術館なので、図録の在庫を確認、狙い通りゲットしました。酒井抱一のことを知るための貴重な資料だと思います。

姫路市立美術館

⑥上野寛永寺をお詣りした時に境内に尾形乾山墓碑「乾山深省蹟」がありました。

尾形乾山(寛文3年(1663年) – 寛保3年6月2日(1743年7月22日))は初名は権平、号は深省、乾山、霊海、扶陸・逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など。一般には窯名として用いた「乾山」の名で知られる。

上野寛永寺 山門

仁和寺の近くに庵を構えた際、近くにいた野々村仁清に陶芸をならい、特色ある色絵陶器の絵付模様を勉強し、高雅な作品を残した。絵は兄光琳に学び、二人の共作も多い。

 乾山茶碗 銘夕顔

37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた右近衛大将二条綱平(後の関白)より京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えられ、窯を開く。鳴滝は都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号し、出来上がった作品に記した。

寛永寺 尾形乾山墓碑「乾山深省蹟」
上野寛永寺 尾形乾山墓碑「乾山深省蹟」

享保16年(1731年)、69歳の時、天台座主輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、宮の江戸下向にともない入谷に移り住み窯を開き、一時、下野国佐野で陶芸の指導を行うも、後に入谷に戻り、81歳で没した。

上野寛永寺
上野寛永寺

乾山は没後、下谷坂本の善養寺に葬られますが、永い年月で墓の存在は忘れ去られます。

文政6年(1823年)、先に泉妙院に光琳墓所を同定し、顕彰碑を建てた酒井抱一により探索され、顕彰碑「乾山深省蹟」が建立されました。

その後、善養寺は上野に移転し墓も移されましたが、明治末期に現在地へ再び移転します。

東京芸術大学
上野 東京芸術大学

上野寛永寺の顕彰碑は、上野より移転する際に上野での足跡を残そうと、関係者により制作されたレプリカということなのだそうです。

また、少し話が異なるのですが、ゴッホが模した広重の絵から亀戸の梅屋敷を調べていたときに、梅屋敷は現存しないこと、向島百花園が当初、梅を揃え、亀戸の梅屋敷に比して「新梅屋敷」と呼ばれたことを知ります。

向島百花園

百花園に遊んでいた江戸の文人達が、向島七福神を定めたという話がありましたが、その文人の中に、大田南畝、酒井抱一がいたという記述を見つけ、面白いなと思いました。

以上のような、「酒井抱一」との遭遇があり、一度記憶を整理してみようかと考えたのがこの記事を書くきっかけでした。

酒井抱一『秋草鶉図』

酒井抱一は文芸の才に恵まれた姫路藩主酒井家の次男坊として江戸に生まれ育ち、爛熟の江戸文化を謳歌し、江戸文化の粋を極めた華麗な人生を送った人物、と言う印象を持っていました。

しかしながら、通い詰めた吉原の遊女にほだされ身請け、浄栄寺の子供を養子に迎え、後の鶯蒲として育てるなどに人間臭さを垣間見るような気がします。

酒井抱一「月に秋草図屏風(第三・四扇目)」

また、琳派に対する深い思い入れから、100年前の琳派の技法を掘り起こして自分の絵画として確立していく傍ら、光琳と乾山の尾形兄弟の墓所を探し出して顕彰した真摯で生真面目な研究者としての姿が見え、「江戸琳派」は一環した抱一の強固な意志があってこそ築かれたものなのだろうと、興味をますますそそられてきました。

酒井抱一とは・・・と

《燕子花図屏風》 1801年

1761年(宝歴11年)7月1日、江戸神田小川町の姫路藩主酒井家別邸にて第十五代酒井忠恭(ただずみ:姫路酒井家初代)の三男忠仰(ただもち)の次男として酒井抱一(=忠因(ただなお))が生を授かる。

抱一は部屋住みの身をむしろ謳歌し、成熟していく天明期の江戸文化を享受し、またその体現者としての役割を果たして行くことになる。

酒井抱一四季花鳥図屏風
酒井抱一 四季花鳥図屏風

部屋住みからの脱出の道としては婿養子、出家などの道があり、抱一にも下総古河藩、名門土井家等への養子の話があったが、抱一は全て断り、気ままな江戸暮らしを続けた、ということのようです。

抱一が古河藩主となっていたら、江戸で遊びまわることも、後に光琳、乾山の魅力に目覚めることもなく、江戸琳派の存在はなかったのでしょう。

「瓜ばった図」酒井抱一(尻焼猿人:狂歌の抱一の雅号)画、酒井宗雅(見及)賛 

酒井家は抱一の祖父、忠恭、父母の忠仰夫妻など、文芸に秀でたもの多く、抱一と6歳違いの兄、後に十六代藩主となる忠以(ただざね)も宗雅、見及(狂歌)の雅号で、絵画、茶道、能、歌舞伎、俳諧、狂歌などの作品を残し、抱一との共同作業も遺されている。

宗雅の賛は「夏たけて(闌けて)あき(紀)に 鳴子の(能)市人は(盤)ばったゝとやす(屋須)うり(里)を(越)する(留)」、よく分からないけど、「夏も峠を越えて秋口になり、(畑の?)の鳴子をならす市井の民はバッタバッタとウリを安く売りはらう」というところなのか・・・

酒井抱一 風神雷神図
酒井抱一 風神雷神図

世は十代将軍家治治世下で、田沼意次が老中への階段を駆け上り続けていく田沼時代にさしかかっており、江戸の街は好景気の中で独自の文化を熟成しつつあった。

江戸浄瑠璃(河東節)、俳諧、狂歌、川柳、錦絵などが流行り、抱一は各方面で色々な雅号、例えば、俳諧では「屠龍」の名を持ち、多くの作品を遺している。

酒井抱一「雪月花図」1820年(文政3年)
酒井抱一「雪月花図」1820年(文政3年)

寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家、法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。

文化六年(1809)、根岸に雨華庵を開く。雨華庵は抱一のアトリエの機能に加え、寺(唯信寺)としての一面を合せ持っていた。

酒井抱一「秋草花卉図」
酒井抱一「秋草花卉図」

抱一は40歳のころから、俵屋宗達、尾形光琳達の系列の作品に興味を示し、研究を始める。当時「琳派」は広く認識されてはおらず、むしろ南画(文人画)の捉え方が多かった。

京都国立博物館

尾形光琳は一時期、姫路藩に出仕していたことも関係したのか、抱一は宗達、光琳の系譜に興味を持ち、光琳の系図を追い、技術の整理を進めた。

文化10年(1813年)、既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性を打ち出した。

俵屋宗達 風神(建仁寺レプリカ)

また自らも光琳を意識した作品を制作し、江戸琳派の祖として認められることになる。

晩年は『十二か月花鳥図』の連作に取り組み、抱一の画業の集大成とみなせる(後述)。文政11年(1828年)下谷根岸の庵居、雨華庵で逝去。享年68。墓所は築地本願寺別院にある。

琳派の展覧会では、俵屋宗達、尾形光琳と酒井抱一の「風神雷神図」が並んだ京都国立博物館の特別展「琳派 京(みやこ)を彩る」展がやはり一番印象に残っているでしょうか・・・

建仁寺 襖絵 鳥羽美花「凪」

敦賀からでかけて、千葉から来る奥さんと京都で10時頃待ち合わせて、博物館あで歩いていくと、気の遠くなるような行列ができていて5時間並んだということの思い出が強いのかも知れません。

疲れ果てましたが、それでも建仁寺にお詣りして、風神雷神の御朱印帳をゲット。

東寺 ライトアップ
東寺 ライトアップ

自分は敦賀に帰りますが、千葉に帰る奥さんと酒を飲んで別れるか、食事抜きで東寺のライトアップを観るかと協議の上、晩飯をパスして東寺のライトアップに感激。

京都駅で奥さんとお別れしました。

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