隅田川七福神詣

1月1日の夜、看護師の長女が夜勤明けで帰宅します。

以前は睡眠不足の状態で平気で車で帰ってくるので心配していましたが、人の言うことを聞くはずもなく、無視されていました。

浅草橋駅「久月」のショーウインドウ

40歳を迎えて、さすがに体力に自信がなくなってきた様で、煩く言うまでもなく、電車で帰ってくるようになり、余分な心配をすることもなくなりました。

この2年程、肩が痛くなり、腕があがらくなったことを口実に、ほとんどの大掃除の放棄をしいて、切羽詰まった雨戸の錠の修理、電球交換程度の最低限程度しか身体をうごかすことせず、淡々と新年を迎えました。

浅草駅から吾妻橋方面へ

大晦日の夜も半分眠りながらのザッピングで過ごし、普段観ることののない紅白歌合戦に最後の最後にチャンネル合わせたら、なんとMisiaの歌が始まるところで慌てて録画。

そのまま成田山からの中継も含んだ「行く年来る年」を見ながらの年越しソバを終え、年賀状作成を朝方まで続けるという年齢に見合わぬ、元旦を迎えます。

吾妻橋からスカイツリーを望む

明け方一寝入りして、できあがった年賀状を出しつつ、足りない葉書を購入して戻り、一応のけりをつけてお節にします。

昨年から、賀状はもう止める旨を告げる葉書が多くなり、10人ほどになるでしょうか。

墨田区役所前の勝安房守、指先の指す方向は上野の西郷さんなのだと。

唯一賀状だけで繋がって居た人と縁がなくなることも淋しいけど、そのうち逢いましょうと言い続けて平気で20年、30年という人達とは、まあ良い機会なのかなと。

もともと、結婚するまでは、10人程度に、もらったら返信のみ出す程度の賀状の捉え方だったので、思い入れはありませんでした。

枕橋

それでも最近は150通くらいを遅れがちではあるものの、葉書に一言二言書くことを続けていて、自ら賀状を止める事ないだろうなと、漠然と考えています。

要らないと言う人には、出すのは止めよう、年賀状イメージをメールで添付してくる奴は無視しよう、などの決めを作りますが、きっと今年の暮れには忘れて、悩んでいることでしょう。

墨田公園

昨年少しばかり体重を落としましたが、体重のコントロールに一番はまず、体重計に毎日乗ること、間食を抑制すること、ですが、自分の場合には酒が大きな要素としてあります。

酒が旨いと、酒を飲みながらの肴も旨いということになり、食い過ぎるということになるわけです。

隅田公園

酒を飲みながら食すと、満腹感を覚える感覚が鈍くなり、量を食べることができてしまう、ということがあるのだと。

とはい、正月は別で、神奈川から帰省してくる娘とお節を食べながら美味しいお酒を酌み交わすことが楽しみになっています。

大行列の牛嶋神社

黒龍の銘柄酒は年々、入手が難しくなるようですが、今年もなんとか「しずく」と「仁左衛門」が入手できて、元旦は1人で「しずく」を開けてちびちびと飲み、夜、娘と改めて飲みますが、あっという間に空になってしまいました。

2日は仁左衛門を開け、改めてお節。娘の母校の東海大の力走に心引かれつつ、隅田川七福神詣に向かいます。

牛嶋神社境内社小稲荷神社

以前、日本橋七福神を廻った時には、参詣と御朱印の強烈な行列待ちで、7番目の水天宮は時間切れで、門前払いを食らいました。

今年は、あまりにも長い列の後ろに並ぶのは止めよう、お詣りしたり、御朱印待ちで時間を費やすことはしないで、適宜パスして行こうとのんびりと構えて、でかけます。

三囲神社

JRを浅草橋で乗り換えて、浅草で下車、墨田区役所前の勝安房守像脇を通り過ぎてスタート、勝の指さす先には上野の森の西郷さんが居られるのだそうです。

七福神のスタート地、三囲神社を目座しますが、その前に牛嶋神社があり、ものすごい行列が神社をはみ出していて、参詣は諦めます。

三囲神社

御朱印は書き置きしかない、すぐもらえるということで参詣の列の脇で一礼し、御朱印をいただき、三囲神社に向かいます。

由緒書きによると、隅田川沿いの旧本所一帯は牛嶋と呼ばれており、その鎮守として、牛嶋神社と称されたのだと。

三囲神社

創建は貞観大地震(貞観11年(869年)で聞きなじみになった、貞観の2年(860年)、初めての祭祀が行われた9月15日が例祭日になっている。

創建にまつわる話として、治承4年(1180年)、頼朝が下総から武蔵に攻め入ろうとした時に豪雨による洪水があったが賴朝を支援していた下総守護千葉常胤がこの地で祈願し、無事渡河できた。

三囲神社

賴朝はそれよろこび、翌養和元年(1181年)に神領と社殿を寄進したことに始まったということで、千葉氏も絡んだ話になるようで、面白いなと。

三囲神社から始まる隅田川七福神巡りそのものは、当時向島を愛し、向島百花園に集っていた酒井抱一、大田南畝などの文人墨客と呼ばれる風流文雅の通人たちが百花園を開いた和学者佐原菊塢の秘蔵していた福禄寿草を中心に遊び心で選定したことが始まりということのようです。

弘福寺

七福神の構成は下記ですが、白鬚神社でいただいた由緒書きを見ると、寿老人に相当する寺社がなかったため、白鬚神社の名前から寿老人を連想して選定し、そのため、寿老「神」と書いた、と言う記述がありました。

七福神地図
  • 三囲神社 – 恵比寿、大黒天
  • 弘福寺 – 布袋尊
  • 長命寺 – 弁財天
  • 向島百花園 – 福禄寿
  • 白鬚神社 – 寿老神(寿老人)
  • 多聞寺 – 毘沙門天
弘福寺

佐原菊塢を調べると、「向島に地所を購い梅花三六十株を植え、亀戸梅荘に対し新梅荘と云い、又、百花園とも称し園中に万葉集の草木、詩経との区別をして植え年中花を絶やすことがなかった。」とあります。

亀戸梅荘というのはおそらく、ゴッホが模写した、広重の描いた臥龍梅のあった梅屋敷を言うのだと思います。

弘福寺

江戸時代、亀戸に呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」があり、その庭には梅の木々が植えられて「亀戸梅屋敷」として、評判となり、江戸市中から北十間川や堅川を船で人々が集まり、たいそう賑ったのだそうです。(亀戸梅屋敷

以前、広重の絵の場所を求めて歩いてみようかと調べたのですが、梅屋敷は現存していないとのことでした。

牛嶋神社を抜けて三囲神社から七福神巡りが始まります。

三囲神社の草創は明確ではなく、建立は平安時代初期にまでさかのぼるとされる。御祭神は宇 迦之御魂命(倉稲魂命)で、「宇迦」は穀物を示す。

京都・伏見稲荷大社の主祭神でもあり、広く“お稲荷さん”という呼称に掛けて、“三囲稲荷”という別名でも呼ばれている。

享保年間、三囲神社のある向島が、三井本家のある江戸本町から見て東北の方角、いわゆる、鬼門に位置する。

また、三囲神社の“囲”の文字には三井の“井”が入っていることからも、「三囲はすなわち三井に通じ、三井を守る」として、三囲神社を江戸の三井家の守護社と定めた。

今なお、三囲神社と三井家とのゆかりは深く、社域の一角には三井11家の当主夫妻、120柱余りの霊が神として祀られている「顕名霊社」は没後100年を経た霊だけが祀られる、特別な場所なのだそうです。

長命さくら餅

三囲神社で恵比寿、大黒天お二人をお詣りし、黄檗宗牛頭山弘福寺へ。

弘福寺の開創は1867年、開山は鐵牛禅師(1628~1700)、開基は稲葉美濃守正則公。稲葉美濃守正則は春日の局の孫であり徳川家光公の側近だったと。

鐵牛禅師は現在の東庄町、干潟町、旭市、匝瑳市にまたがる潟湖「椿海(つばきのうみ)」の干拓事業干拓事業を指導した人物として知られ、千葉東庄町福聚寺に墓があるのだそうです。

10月桜

日本橋七福神詣の時には、小網神社で1時間以上並んで、最後の水天宮では閉門されてしまった思い出がありますが、今日はスムーズに進みます。

七福神は東京都内の各地域に各種あり、歴史の重み、周囲の町並みなどで人気の有無があり、人出の濃淡があるようで、墨田七福神の人気は今一ということなのでしょう。

フユザクラ

長命寺境内に樽酒が用意されていて、木の実ナナの名札が掲示されていました。

樽酒に気をとられて、御朱印をいただくのを忘れて、裏から「長命寺の桜餅」へ向かい、お茶と桜餅をいただきます。肉厚のかなり塩の効いたサクラの葉っぱで包まれたお餅。葉っぱを外して食しましたが、サクラの葉の香りと塩気がほんのりと移ったお餅が上品で爽やかでした。

言問団子

長命寺桜餅を堪能して、十月桜、フユザクラの花を見て、王さんの育った墨田公園少年野球場迄来ると、いやでも言問団子の看板が目に入ります。

近頃、酒でハシゴはあり得ないけど、甘い物のハシゴは抵抗ないなとふらふらとお店に吸い込まれてました。

言問団子は江戸時代の創立であるが、「言問」の名は在原業平が隅田川沿いで読んだ「名にし負はばいざ言問はん都鳥我が思ふ人はありやなしやと」にちなんで明治時代に命名されたものなのということなのだそうです。

お店でいただく言問団子のお皿には言問の文字と都鳥が描かれており、歴代の絵皿が店内に展示されていました。どれも趣があるのですが、初代、明治時代の三浦乾也の絵と文字が面白いなと。

どんな人だったのだろうと調べ始めて驚きました。facebookに概要を以下のように記載しました。

言問団子 桜餅からのハシゴスィートでしたが美味しくいただきました。

向島百花園で話が出てきた江戸琳派の祖、酒井抱一は琳派の熱心な研究者であり、京都で、不明になっていた尾形光琳の墓を捜索し、墓自体は見つからなかったのですが、墓所跡に顕彰碑を建立します.

酒井抱一はさらに文政6年(1823年)入谷善養寺で尾形乾山の墓を探しだし、顕彰碑である「乾山深省蹟」を善養寺に建てています。 

王さんが生まれた墨田公園少年野球場

乾山は野々村仁清の影響を受け陶工になり、鳴滝に窯を築きます。鳴滝は京都の乾(いぬい)の方角にあたるため「乾山」と窯の名につけ、その製品の商標、さらに彼自身の雅号に用いました。

享保16年(1731年)、69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住み、窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれます。

向島百花園

寛保3年(1743年)、81歳の時に、没し、下谷坂本の善養寺に葬れましたが、其の後、所在が不明となっていたものでした。

抱一は、さらに乾山が残した伝書のうち、江戸伝書を入手し、西村藐庵(みゃくあん)に託して五世乾山を名乗らせます。

向島百花園

三浦乾也は叔父である陶工井田吉六の養子となり、陶芸を習うが、15歳の時、さらにその叔父とともに藐庵に弟子入り、24歳の時に伝書を譲られ、六世乾山となります。

この後が、波瀾万丈というのか・・1853年、32歳になった乾也はペリー来襲で黒船を見て、国防の意識に目覚め、軍艦の模型を作成し、海防をお上に訴えます。

向島百花園

これが幕府に認められ、長崎に派遣されて、造船、航海術をオランダ人から学ぶのですが、のみならず、ガラス製造、築炉の技術などを短期間のうちに学んだのだと。

長崎から帰ると、推挙されて仙台藩に出向き、寒風沢島で帆船式軍艦「開成丸」を竣工。その功あって作事奉行並で召し抱えられ、開成丸の江戸への処女航海に艦長として凱旋・・・

白鬚神社

って、乾山はどこに行ったの?というところですが仙台では乾山の作風を伝えて堤焼の再興に尽力と、本業でも力を発揮していたようです。

朝敵仙台藩への関わりから、維新後、獄に繋がれた後、秦野(尚古園焼)、飯能(飯能焼)などで作陶を続けるも、認められず、不遇の時を過ごします。

東白鬚防災団地

1875年54歳の時に向島長命寺境内の一隅に築窯し、以降、乾也焼の作陶、その他に珠や根付け、印籠、帯止め、刀の飾りの創作を続け、高く評価されるようになった。 と、まあ、言問団子の皿から、とんでもない天才を垣間見ることとなりました。

三浦乾也についてはなかなかまとまった記事がなかったのですが、下記のリンクに結構詳細に描かれいました。

東白鬚団地前の榎本武揚像

「三浦乾也ー幕末の鬼才」益井邦夫と言う本があるのですが、amazonで見ると、廃版となっているようで中古で1万円という値が付いています。

茶の湯こぼれ噺
貞山・北上・東名運河事典
いわの美術株式会社
文学金魚

と、大分言問団子で手間取りました。

多聞寺茅葺き山門

ひたすら歩いて向島百花園にたどり着いて福禄寿の御朱印をいただきますが、神社でもお寺でもないところで御朱印って、なにかピンとこない。

園内を少し歩いてミツマタ、ローバイの花を愛でて、白鬚神社に。

鐘ヶ淵駅

最後の毘沙門天(多聞天)の多聞寺はえらく一カ所だけ離れている感じ。途中東白鬚公園にある防災団地を横目に見て、もう荒川端の堀切近くまで歩きました。

真言宗智山派寺院の多聞寺は、隅田山吉祥院と号す。創建は不詳。

本尊は、隅田川七福神の一つにもなっている毘沙門天。茅葺の山門は区内最古の現存建造物で墨田区の指定文化財になっていいるのだそうです。

お詣りを終えて、少し戻って鐘ヶ淵駅から浅草に戻りました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA