「Strange Fruit」そして今、なにが変わったのか

本記事は手荒な逮捕により、死亡したジョージ・フロイド事件の直後、アメリカが騒然としている頃、Lauren Leadinghamの書いた記事「Billie Holiday’s Strange Fruit: The Song That Remains the Same」を翻訳したものです。

Lauren LeadinghamはWebサイト「American Bluce Scene」のDirector of Content(責任編集者?)となっており、同誌で色々なミュージックシーンの評論を発表しています。

記事はfacebookで見かけました。自分にはかなり難解で「意訳」が多く、原典といささか違っている部分も多いかと思います。

Fine and Mellow

人種差別に立ち向かう象徴としてのビリー・ホリディと彼女の代表作「奇妙な果実」を描いたものです。強烈な歌詞を持つ「奇妙な果実」を感情を抑えて淡々と歌うビリー・ホリディの凄さをヒシヒシと感じました。

人種差別反対を唱える力が勢い余った暴動に発展する勢いを見せたことに暗い気持ちでいましたが、それを上回る警官による暴力事件が続くこと、州兵を使ってでも抗議活動を収めようとする政府がいて、今この時代に、アメリカの深い深い暗い暗い谷間の巨大さに戸惑います。

「Strange Fruit」そして今、なにが変わったのか

これはあり得ないことを実現させた真の殉教者、ビリー・ホリデーの物語である・・・

苦しみの訴えを無視され、警官に地面に首を押しつけられ続けて逮捕され、拘置所で亡くなったジョージ・フロイドの事件に対する抗議活動は12日間に及ぼうとしている。

緊張は極限に達し、アメリカは今、変曲点にあり、記憶に無いほどの事態に皆たじろいでいるが、しかし紛れもない事実である。

目の当たりにみているこの歴史的なシーンは、過ぎ去った過去の歴史ではない。我々はこの悲しい唄を以前も歌っていた、「Lady Day(ビリー・ホリディの愛称)」はまさにこのブルースを歌っていたではないか。

Billie Holiday

1939年3月、ニューヨーク、グリニッジビレッジのナイトクラブ「Cafe’ Society」。23歳のビリー・ホリディがそのステージでのラストソングに向かおうとすると、ウエイターは給仕する手を止め、部屋の灯りが落とされてカフェ内は静寂な闇となった。

一筋のスポットライトがホリディの顔を浮かび上がらせ、歌い始めたその途端に、観客達は魂を惹きつけられ、戸惑いを感じつつも興奮のるつぼにき込まれていった。

Southern trees bear a strange fruit
Blood on the leaves and blood at the root
Black body swinging in the Southern breeze
Strange fruit hanging from the poplar trees.

※Pastoral scene of the gallant south
The bulging eyes and the twisted mouth
Scent of magnolias, sweet and fresh
Then the sudden smell of burning flesh.

Here is fruit for the crows to pluck
For the rain to gather, for the wind to suck
For the sun to rot, for the trees to drop, 
Here is a strange and bitter crop.

南部には奇妙な果実がなる樹々がある
血まみれの葉っぱ、血まみれの根っこ
黒い実が南風に吹かれて揺れている
ポプラの樹々になる奇妙な果実・・・

南部の広大な田園風景
眼は膨らみ突き出してきて 口は歪み
木蓮の甘く爽やかな香りの中で
突然、焼けた肉の臭いが襲う

カラスが啄む果実が、もう一つある
雨に打たれ、風に蝕まれ
太陽に焼かれ、樹からその果実は落ちる
奇妙な苦い果実が、もう一つある

strange fruit

※原典には前半の歌詞のみが掲載されており、※以降は当方が勝手に追加したものです

人種差別主義の犠牲者を歌うこの哀歌を語るホリデーの歌声は、強烈な嵐となって部屋の空気を一変させたのだった。

スポットライトがフェードアウトすると同時に、ホリディはステージから姿を消し、アンコールに応じることはなかった。

彼女の思いを心から絞り出したこの歌こそ「Strange Fruit=奇妙な果実」であった。

リンチが横行したジム・クロウ法時代下の悲劇を訴えるには、このCafe’ Societyでの過激で進歩的な情況は、訴える観衆としては正解だったのかもしれないが、訴える場所としてナイト・クラブは相応しくない場所と言えたかも知れない。

※1876年から1964年にかけてアメリカ合衆国南部諸州存在した、有色人種に対する人種差別的内容の州法の総称。リンドン・ジョンソン大統領下で1964年に成立した公民権法により廃止された。

all of me 

しかしながら、歌が終わるころに、彼女は全てを巻きみ、まさにこのクラブの雰囲気を圧倒したのだった。観客は歓声をあげ、手が痛くなるまで手を叩き続けていた。少数ではあったが明確な人種差別主義の観衆もいたのだが、クラブ内の違和感は消滅していた。

「奇妙な果実」はユダヤ人の学校教師で市民権活動家であったエイベル・ミーアポルにより書かれた詩「苦い果実」に基づいている。

1930年、エイベルはトーマス・シップとアブラム・スミスの2人の黒人がリンチされ、樹に首を吊られている新聞記事の写真を忘れられず数日苦しみ抜いた挙げ句、思いを作品として残すことを決意する。

※この写真はWikipedia で閲覧可能ですが、「閲覧注意」の但し書きが書いてあります。かなり刺激的な写真でしばらくイメージを吹き払うことができなくなりそうです。

1937年、エイベルはルイス・アランというペンネームで教師組合の機関紙に「Bitter Fruit」を発表した。

さらに後日、ミーアポルは「苦い果実」に曲を付け、Café Societyのオーナー、バーニー・ジョセフソンに送った。バーニーはビリー・ホリディに自分のクラブで唄うことを依頼する。

ビリーは歌詞の内容を知り、共感しながらも、つらい思いにたじろぐ。詩の内容に感動したのだが、この歌に入り込めない事情、彼女の父の死の情況が思い出されて、困惑していた。

ビリーの父、クラレンス・ホリディはまさに彼の皮膚の色が理由で病院での治療を拒絶され、39歳の若さで亡くなっていた。

1956年に出版された自伝の中で、ビリーは語っている。「父は肺炎(の変種?)を患っていて、今だったら、きっとペニシリンかなんかで簡単に助かってたんだと思うけど、当時の事情は異なっていて、食べることも、さらに座ることができなくなり、部屋の中を往復したり、街の中をうろついたりする以外なにも出来なくなった。」

ビリーの初演の夜、ミーアポルは観衆のなかにいた。

彼の心の中では、まさにこの歌を伝えるべき歌手が、まさにこの歌を発表する時と場所を得たドンピシャリのパフォーマンスだと感じられた。ミーアポルは語っている。ビリーは驚異的にドラマティックで、効果的な唄の解釈を伝え、観衆達を個々の自我の殻から開放した。

ビリーの為したことは、まさに私が唄に望んだことであり、私の唄を作った意図をまさに体現してくれたのだ。ビリー・ホリディのこのスタイルは他に比べようの無いほどに、自分が描きたいと思っていたこの唄の苦く、衝撃的な本質を詳細に描ききった。

グリニッジ・ビレッジという政治的にはリベラルな場では圧倒的な支持を受けた「奇妙な果実」であったが、大部分が白人層に支えられていたナイトクラブシーンでは、残念ながら大きく広がることにはならなかった。

想像してみて欲しい、10歳の時に隣人にレイプされ、勇気を振り絞って、前向きに生きようとしていても、抗議もできずに、更生のためのカソリックスクール(ボルティモアの黒人専用カトリックの女子専用寄宿学校「良き羊飼いの家」(House of Good Shepherd for Colored Girls))に送られたことを。

Billie Holiday – Now or never [Colorized]

1920年代頃の父権社会では、レイプを咎める考え方は根付いておらず、犠牲者の方に罪があるようにされることがあった。ビリーを襲った30歳も年長の男は逮捕されても、ビリーが誘ったと訴えたのだ。

こんな経験をした末に、売春宿で働く母の傍に座り、当時のバタリック・ドレス(バタリック型紙を使用したドレス?)を着てチャールストン・ダンスを練習する女達にからかわれている少女を思い浮かべて欲しい。

こんな貧困と人種差別により圧迫され続ける人生を想像出来るだろうか?

ビリーの人生にもう1人の悪魔、ビリーの口を閉ざした悪魔がいた。

そう、我々には詩に音楽を乗せた形の真の抗議のこの唄があったのだ。アメリカの大衆が容易に受け入れられる形でビリーが人種主義への抗議の声を上げることができた3分10秒の・・・

しかしながら、ビリーに眼を付けたある人間がいたのだ。

ハリー・アンスリンガー、この男はフーバー、ルーズベルト、トゥルーマン、アイゼンハワーそして、ケネディ大統領の下で米国財務省麻薬取締局初代長官を務めた悪名高き人種差別主義者であった。

禁酒法時代の14年年間で彼は酒との戦いに敗れ、復讐心に燃え、アメリカからドラッグを根絶やしにすることをターゲットとした。

アンスリンガーはジャズこそが、自分の立ち位置を愚弄するものであると考えた。そして、彼を困惑させる耳障りなジャズミュージシャンの即興のアドリブを産み出しているのはマリファナであると確信する。

ミーアポルが「奇妙な果実」を生み出した年に、アンスリンガーはようなキータッチはまともな状態だったら、あり得ないと主張したのだ。

彼は良き音楽家を認めるのではなく、ルイ・アームストロングやチャーリー・パーカーを含んだ、批判すべきひとまとめのジャズ野郎達と捉えようとしていたのだ。

彼は部下達にドラッグ容疑者達を襲うときの最適な手法は、まず、奴らを撃つことだと教えた。

・・・理解不能であるが

当時、ジャズミュージシャンであろうとすることは焼身自殺する様なもので、多くのジャズマンが絶望的なアルコールとヘロインの落とし穴にはまって行った。

また、都合の良いことに、法と秩序を重んじる人達は「黒人の音楽」を嫌う傾向にあった。 

Harry Anslinger (pictured at left) stockpiling opium for World War II
Harry Anslinger (pictured at left) stockpiling opium for World War II

アンスリンガーはビリーに「奇妙な果実」を唄うことを禁じたが、ビリーは拒絶し、そのために、魔女狩りに遭うことになる。

彼女がヘロインをやっていたことは知られていて、アンスリンガーは部下に命じ、ビリーに罠をかける。彼らはビリーにヘロインを買わせて、逮捕、18ヶ月間刑務所に放り込む。

1948年、彼女は釈放されるが、州政府はビリーのキャバレー出演のライセンス更新を許さなかった。それは彼女が酒を供給する会場で唄う道を絶たれたということであった。

ナイトクラブ界のメンバーであることを許されず、幼小の頃のトラウマから逃れられず、ビリーは急速にヘロインにのめり込んで行く。

1959年、彼女は肝硬変と心肺機能のトラブルでニューヨーク病院に入院する。

アンスリンガーは容赦しない。

彼の部下は彼女の病室に押し入り、ベッドにヘロインを仕込み、逮捕するぞと脅迫、さらに彼女をベッドに手錠で繋いで写真を撮り、尋問し、指紋を採り、友人達のお見舞い品を持ち去り、部屋の外に警官を配し、いかなる見舞客もシャットアウトした。

医師がビリーに投薬した鎮痛剤メサドン(methadon)によりビリーは体調を取り戻しつつあった。彼女の体重は戻りつつあり、快方に向かっていた。

しかし、アンスリンガーへのご機嫌取りであることは明らかなのだが、役人はメサドンが非合法であると通告、医師のこれ以上のメサドンによる治療を禁止された。

彼女は数日後に命尽きることになる。

色々な見解はあるのだろう、でも私にとっては、「奇妙な果実」は、はるかかなたの先頭を切って走った市民権運動の聖歌、ビリーの命の代価として得た、まさにビリーの名前がくっきりと刻まれた唄なんだと。

唯一残っている「奇妙な果実」の演奏は1959年チェルシー9での英国キャバレーテレビジョンショウの記録であり、悲しいことに、彼女はこの数ヶ月後にこの世を去ることになる。

我々はもう、彼女が最初の詞を語り出す前に、踏み出す勇気を絞り出し、息を呑み、ぎりぎりの切羽詰まった表情をしていることを読み取ることができる。

彼女が踏み出したことは彼女にとっては明らかに至極の選択だったのだ。20年前の彼女に対しても、2人のリンチされた人間に対しても、彼女の父に対しても・・・

そして、今、ジョージ・フロイドに対しても「奇妙な果実」は同じことを語り続けているのだ。

Lauren Leadingham 

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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