本法寺

妙顕寺のお詣りを済ませ、本法寺に。以前にも通ったのですが、自分の中での、お気に入りルート、表千家不審庵、裏千家今日庵の並ぶ小川通りを抜けて行きます。

不謹慎だけど、不審庵あるいは、今日庵のお庭を観られるのなら、お茶を始めてみたいと、思ってしまうほど、この通りには洒脱な雰囲気が漂います。

表千家不審庵

小川通りの途中で下水か水道の工事中で、車両通行止めになっていました。実際には十分に車が通れるスペースがあったのですが…

入り口で交通整理のおっちゃんとかなりのやりとりをした挙げ句、諦めて台車で大荷物を運んできた宅急便業者、出口まで来て、「通れるじゃないか!」と、出口のおっちゃんに大声で噛みついています。

裏千家今日庵

雰囲気に似合わぬ無粋な、というところですが、宅配のお兄さんの気持ちも、指示に従わざるを得ない入り口のおっちゃんの気持ちも、なにより、入り口のやりとりを知らないで、一方的に怒られる出口のおっちゃんの困惑も解ります…

本法寺の山門を潜りながら1人でニヤニヤしてしまいました。

本法寺

本法寺にきて、空の彼方を見つめる等伯の像に向かい合います。遠く高みを見続けた絵師ということなのでしょうか…

親しかった利休、息子の久蔵の死の哀しみを越えて筆を執り続けた等伯らしいという感じもします。

長谷川等伯(1539~1610)は能登国七尾で武士の子として生まれるが、染色業の長谷川家の養子となり、故郷の七尾を中心に仏絵師として活動。

長谷川等伯の像 本法寺

33歳の時、養父母の死をきっかけに、生家の菩提寺のつてで、この本法寺の塔頭、教行院に住み、制作に励む。

しかしながら、その後、50歳になるまでの活動の詳細は判っていないのだそうです。

本法寺巴の庭

天正17年(1589)、51歳の時、大徳寺の三門楼上壁画と三玄院障壁画を描き、狩野派に伍する著名な絵師となり、その後、表舞台にでてきたということのようです。

画家の像では、サン・レミの修道院跡に立っていた、ガリガリに痩せたたゴッホ、エクス・アン・プロヴァンスの駅前公園から街を睥睨している落ち着いたまなざしのセザンヌ像を思い出します。

本法寺巴の庭

画家ではありませんが、風雨にさらされている聖人で、自分の中で最も印象に残っているのは、あわらの北潟に臨んだ吉崎御坊に一人立ち尽くす、高村光太郎作の蓮如上人像です。

と、また、関係の無い話に行ってしまいましたが、叡昌山本法寺は、日蓮宗久遠成院日親上人(1407-88)によって永享八年(1436)に創建されたと言われる。

妙顕寺同様、度々の法難にさらされ、数回の破却を受けたが、聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、天正十五年(1587)に現在地に移転する。

移転に当たっては、本阿弥(光悦)家の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、寺勢栄えるが、天明八年(1788)の大火で経蔵と宝蔵を残し全焼。

その後、徐々に伽藍が再建されてきた、とあります。

本阿弥光悦の家は、代々刀剣鑑定の職についていたが、光悦の祖父が将軍職の勘気に触れ、獄につながれたおりに、本法寺貫首、日通上人に教化され、法華信者となり、菩提寺を本法寺としていた。

涅槃図釈迦(部分)

そう言えば、鷹峯に光悦寺というのがあったっけ…

本阿弥光悦は1615年に、家康に土地を与えられ、鷹峯に草庵を構え、引き連れていった工匠達と一帯に芸術郷を造り上げます。

等伯 仏涅槃図 1599 (10m×6m)

光悦の死後、その地にあったお堂を光悦寺とし、本法寺の日磁上人を招請し、開山とした、ということで、光悦と本法寺は密接に関係していたようです。

本阿弥光二・光悦親子が本法寺の伽藍建設に尽力し、さらには「巴の庭」は光悦の作庭とされている。庭に面した蹲踞(つくばい)に光悦作の札がありました。

光悦垣?

また、光悦寺で観た、竹で編んだ緩やかなカーブを描いた、「光悦垣」に似たものが庭の端にありました。

今の時期はレプリカだけしか展示していないんですよと、申し訳なさそうに言われて、大涅槃図の展示室に入ります。真筆が拝観できるのは3月15日~4月15日の1ヶ月ということです。

本法寺 蹲踞

他に誰も居らず、涅槃図、巴の庭をゆっくり鑑賞させていただきました。

本法寺に接して建つ茶道資料館は、以前に拝観したのでパスして、相国寺に向かいます。

本法寺

やはり法華宗の妙覚寺を過ぎると、子年の妙見宮という標示があり、誘惑には極めて素直な、くまさん、道を曲がってしまいます。

妙見様の隣に、法橋 尾形光琳の顕彰碑がありました。

妙覚寺

尾形光琳の墓地のあったところに光琳の落款を写した碑を建てたと言う説明があります。先ほど、山門から入った妙顕寺の東側の斜め裏に来た形になっているようでした。

帰ってから調べると色々経緯があり、複雑ですが、尾形家の菩提寺が廃寺となり、尾形家の墓所が最終的に妙顕寺塔頭の泉妙院に引き取られたということになるようです。

法橋 尾形光琳顕彰碑

気がつかなかったのですが、妙顕寺の山門側にならんで、泉妙院があり、位置的にはこの顕彰碑の背中の位置にあたるみたい。

拝観できないようですが、泉妙院には酒井抱一が建てた石碑があるのだそうで、金を出しただけ、と言うことなのかも知れないけど、ちょっと、そそられます。

 

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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