味真野の桜Ⅱ文室川

霊泉寺の大仏様をお詣りしたあとに、毫摂寺(ごうしょうじ)、城福寺とお寺回りをして、花筐公園に向かおうと、ルートを確認します。

2014.04.05 味真野 文室川
2014.04.05 味真野 文室川

味真野苑で入手した地図を見ていると少し寄り道になるけど文室川(水無瀬川)の川沿いに桜マークが並んでいます。

今回、味真野に行こうと思い立ったきっかけは雑誌「福楽」春号の越前市特集でしたが、雑誌には武生の吉瀬川の桜というのが紹介されていますが、文室川の紹介はありませんでした。

期待せずに車を走らせましたが、たどり着いてみると川沿いに古木の桜が並ぶ様は壮観でした。

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自分が今まで見た勝山弁天桜や足羽川は道の両側に桜が並んで、トンネルを構成していました。

ここの桜並木は一列なのですが、古木が枝を大きく横に張り出して、川沿いの道を覆い、トンネルを造っています。

福井県の継体天皇の紹介ページ「継体天皇と越の国・福井県」に文室川の文章がありました。

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「文室川は、浅水川あるいは水無瀬川とも呼ばれ、継体大王が狩りに出られた時、この川が溢れて行く手を遮りました。

そこで水の神に祈願したところ、たちまち水が無くなり無事に渡れるようになったと伝えられています。

この川の豊富な伏流水は湧き水となり小川やいくつもの泉を作り、その1つである治佐川では、清らかな水が梅花藻とそれに巣を作る淡水魚トミヨを育んでいます。」

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継体天皇についてまとめて勉強したことがないので、ここで、同紹介ページ、雑誌「一個人・天皇の謎と秘史」、Wikioediaで、継体天皇のおさらいをさせていただきます。

継体天皇すなわち男大迹王(をほどのおおきみ)は応神天皇の5世の孫で、父は彦主人王である。

日本書紀の記述に「彦主人王は振媛が顔きらきらして、大変美しい人であることを聞いて三国の坂中井(福井県坂井市)へ使いを送り、近江国高島郡三尾(滋賀県高島市)に召し入れてお妃とした。」と書かれている。

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味真野苑の継体天皇ご夫妻像

その二人の間に生まれたのが男大迹王である。

男大迹王が生まれて間もなく、彦主人王は亡くなったため、母は男大迹王を連れて故郷越前国高向に帰る。

男大迹王長じて5世紀末の越前地方の統治者となる。坂井市丸岡町高田には高向神社が建てられており、この付近に高向の宮があったとされている。

『日本書紀』の記述によると継体大王は、西暦450年前後に越の国(福井県)に入り、即位するまでの50年余りを過ごしたことになる。(古事記では年齢などがかなり異なるようですが。)

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6世紀の初め、506年、第25代武烈天皇が後嗣定めずして、崩御する。

天皇には跡継ぎがおらず、大連(おおむらじ)、大伴金村、物部麁鹿火、大臣(おおおみ)、巨勢男人らが協議し、丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなした倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。

さらに、ご子孫を調べ選んでみると賢者と言えるのは越の国の王、男大迹王だけらしいとなり、標しの旗と御輿を備え越の国の三国へお迎えを出した。

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使者を迎えた男大迹王は、侍臣を整列させ、ご自身は落ち着いた様子で床几に腰掛け、すでに帝の風格がおありになったと。

王は最初は申し出に疑いを抱き、すぐには承知しなかったが、探りを出し、大臣、大連らの本意を確認したのち、発たれる決心をしたという。

翌年、河内国交野郡樟葉宮(くずはのみや、大阪府枚方市)において継体天皇として即位し、武烈天皇の姉(妹?)にあたる手白香皇女を皇后とした。

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ちなみに、味真野の夫婦像で継体の傍らに付き従うのは照日の前で、越前王の時の后であり、即位に際して継体と別れて、越前に残ります。

継体の宮は即位後、筒城宮(京都府京田辺)、弟国宮(京都府長岡京市)と転々し、ようやく即位19年後の526年に大倭(大和国)の磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に都を定めます。

都から離れた越の国から天皇を迎えたこと、宮を定めるまで、20年の期間を費やしたことなど、継体天皇に関しては、色々な説があるようです。

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日本書紀では先帝、武烈天皇は妊婦の腹を開いて胎児を見る、生爪をはがして芋を掘らせた、木登りをさせて矢で射たなど悪逆の非道の人とされている。

これは人格的に相応しくない治世者は血統が絶えるという、中国の皇帝観に影響された日本書紀の編者が創作したのであろうと言われているのだそうです。

また、請われながら、大倭に入るまでに20年近くかかったのは、国体が安定せず、皇室内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があり、反対勢力を打ち破りつつ、転々としたことなのかと思います。

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しかしながら、雑誌「一個人」の記述によると、継体天皇の即位に関わる不思議から、下記の考え方があるのだそうです。

なぜ、「越の国」の王が選ばれ、后を替えねばならなかったか、大和に入るのに20年近くかかったか、および「継体」という名前になったのか?などです。

継体天皇による皇統の即位というより王朝の交替があり、継体以降は異なる皇統になったったのでは、という説があるということです。

上流側
上流側

すなわち、継体は迎え入れられたというよりは皇位を簒奪し、皇室の系統を継ぐために、手白香皇女を娶り、皇統を継ぐという意味で名前を「継体」とした、ということなのではないかということです。

続くです。(さすがに長すぎるようで、分割しました)

 

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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