御朱印を受け取り、青蓮院を出ると、花灯路の飾り付けの生け花があります。陽の光の下でも、華麗ですが、ライトアップされると、また、一段と輝きそうです。
知恩院に近づくとここもライトアップの準備がされていました。
以前の花灯路の時に、確か知恩院は公開しておらず、山門のライトアップを見て通り過ぎた記憶があります。
時間がなかったせいで、参拝しなかったのかもしれないのですが、定かではありません。
浄土宗総本山、知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)は浄土宗宗祖の法然上人(法然房源空)にゆかりの地になります。
法然上人は1175年、叡山から降りて、「専修念仏」の教えを広められて行きます。
その時に住まわれた東山吉水(よしみず)の地の禅坊は現在の御影堂の場所だったのだそうです。
御影堂は真言宗では「みえどう」と呼んでいるようですが、浄土宗では「みえいどう」になるようです。
専修念仏の教えは経験、悟りの程度にかかわらず、全ての人がただ、念仏を唱えるということですから、僧侶の地位を危うくする教えというこになるのでしょう。
浄土宗は既存の宗門の反発を買い、激しい弾劾と謀略の末、法然上人とその弟子たちは弾圧を受け、1207年、一門の弟子の行為の責めを負い、流罪の身となられます。
この時法然上人は四国へ、真宗の祖、親鸞上人は越後の国へと配流されます。
間もなく、配流を解かれた法然上人は、しかし、すぐには京に戻れず、しばらく摂津の地にとどまった末に、1211年、現在知恩院勢至堂の建っている、大谷の禅坊に居を構えられますが翌年病に倒れます。
1212年正月25日、病床に就かれたまま、上人は御年80歳で大谷で入寂されます。
ということで、法然房源空上人が浄土宗の教えを始められ、その最後を迎えられた地が知恩院であるということになります。
法然上人は病床で弟子の勢観房源智上人の願いを受け、念仏の肝要を述べた『一枚起請文』(いちまいきしょうもん) をしたためます。
「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べたもので、浄土宗公式サイトに本文と解説がでています。本文と解説の一部を引用させていただきます。
『一枚起請文』:元祖大師御遺訓(がんそだいしごゆいくん)
「唐土我朝(中国や、我が国)に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。
ただし三心四修(3つの教え※1と、4つの修行※2)と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う うちにこもり候うなり。
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊(お釈迦様と阿弥陀様)のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法(お釈迦様が生涯をかけて説かれたお教え)をよくよく学すとも、一文不知(全く理解していない)の愚鈍の身になして(無知な人間であると自省し)
尼入道の無智のともがら(出家しながら仏の教えを学んでいない人たち)に同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証のために両手印をもってす。(自らの言葉であることの証左に両手で印をする)
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。
源空(法然上人)が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義(間違った見解がでてくること)をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。
建暦二年正月二十三日大師在御判 」
『観無量寿経』に云わく、もし衆生有って、彼の国に生ぜんと願う者は、三種の心を発して、すなわち往生す。
※2:四修
善導の『往生礼讃』に云く、また勧めて四修の法を行ぜしむ。何者をか四とす。
一には恭敬修。いわゆる彼の仏、および彼の一切の聖衆等を恭敬礼拝す。
故に恭敬修と名づく。畢命を期として、誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。
二には無余修。いわゆる専ら彼の仏名を称して、彼の仏および一切の聖衆等を、専念し、専想し、専礼し、専讃して、余業を雑えず。故に無余修と名づく、畢命を期とし誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。
三には無間修。いわゆる相続して、恭敬礼拝し、称名讃歎し、憶念観察し、回向発願し、心心に相続して、余業を以て来し間えず、故に無間修と名づく。
また貧瞋煩悩を以て来し間えず、隨犯隨懺して、念を隔て、時を隔て、日を隔てしめず。
常に清浄ならしめるをまた無間修と名づく。
畢命を期として、誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。
(選擇本願念佛集 巻本第九章段浄土宗公式サイト )
よく理解できないのですが、絶え間なく、修行を続ける長時修は三修すべてに共通する修行であり、これを第四として四修ということなのだと思います。
以前に書いたのですが、静岡、牧之原の「くま家」の菩提寺は浄土宗でした。
母と父を浄土宗で弔い、母は千葉県四街道市のお墓に納め、父は静岡の菩提寺に納めました。兄にお願いし、分骨をして、一部が母とともに同じお墓に眠っています。
亡くなった兄が父を散骨すると言って、菩提寺の墓から父を掘り起し、一部を榛原海岸に散骨したことは以前記事にしました。
自分としては家系に準ずることで、自分の決意とは別のところで、宗派につながって、それが浄土宗であると・・・宗教を考えることの起点になるのかと考えていましたが。
父がお墓から居なくなることで、「菩提寺」との縁も切れた気持ちになっています。
ただし、浄土宗、法然上人を意識して、勉強をしていくことで、宗教というものを考えようということは変えることはないのかと・・・
と、一気に関係のない話になってしまいました。
参拝をしているうちに雨が降り始めてしまいました。
三門に登ることができるようですが、いささか疲れたのと、天気が悪いのでパス。
三門の手前にある友禅染の祖である宮崎友禅斎を記念してできたという友禅苑を拝観します。
時間を見ると部屋を引き払う約束をしていた、11時をはるかに過ぎて、12時に近くなっていましす。
11時前に、懐古庵に間に合わない旨は電話して、ゆっくりしてくださいと言われていましたが、まあさすがにそろそろ荷物を取りに行こうと・・・
途中、可必館により、荷物になるので今日買おうと思っていた、「上野 憲男展 あさき夢みし」の図録集を購入。
懐古庵に戻って荷物をまとめて京都駅に着くと、なんと強風で湖西線が全線停止していると・・・
焦って、駅員に訊くと、サンダーバードは米原経由で運転中とのこと、一安心でした。
時間は1時間半と湖西線廻りより、30分以上長くかかりましたが、サンダーバードで湖東を帰る面白い体験をしました。