青蓮院

3月10日の東山花灯路の翌日のことです・・・って、いまや7月ですが・・・花灯路は結局高台寺で終わってしまいました。

青蓮院の庭園のライトニングは今まで2回見ているので、まあ、たどり着けなくでもいいかと思っていました。

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町屋風宿泊所の「懐古庵」

今回高台寺の庭園のライトアップを拝見しましたが、華やかさでは青蓮院がぬきんでている感じがしました。

今日は天気も良くなさそうだし、歩けるだけ歩いて敦賀に帰ろうと・・・

「懐古庵」
「懐古庵」

宿泊先の懐古庵は11時ごろにチェックアウトすればいいということなので、朝のうちに青蓮院から知恩院まで歩いてみようかと、荷物を置いたまま、カメラだけ持って出かけます。

結局、戻るのが12時を過ぎてしまって、電話して平謝りする結果になりましたが、まあ、今日は宿泊の予定が入っていないということで、やさしく許していただきました。

懐古庵から東山三条の交差点に歩けば青蓮院に出れそうと検討をつけて歩き出します。

要法寺の池にいた鴨
要法寺の池にいた鴨

途中の日蓮宗要法寺の池で鴨を撮影しつつ抜けると、東山三条の交差点にでます。

今日は京都マラソンの日で、ボランティアの人たちなのでしょう、おそろいのキャップとウィンドブレーカを来た人たちが集団であちこちを歩いていて、街中が浮き浮きしているような気がします。

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三条交差点をまっすぐ、青蓮院に向かおうと思いますが、交差点の傍らに、狭い小路があって面白そうなので方向転換して通り抜けます。

古川町商店街と書いてありました。

小路の中に今回利用した懐古庵のような町屋を改造した宿舎がいくつかありました。

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町屋の宿泊設備は外人がグループで利用したりするということでしたから、日本にくる外人たちに共通の独特のチャンネルがあったりするのかもしれません。

自分達がネットでホテルを探すと、結局大手のネットワークで引っかかる宿で決めることになることが多いですが、過ごし方のスタイルに沿った宿泊設備を探せばあるのだろうな、と思います。

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小路を抜けると水路に出ます。地図で調べてみると鴨川から蹴上の浄水場に向かう疎水の途中から分岐して、鴨川に戻っているようです。

疎水建設上で必要とされた、水路なのでしょう。用途はよくわかりません。

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石橋に柳並木の川沿いの道路など明治時代から今の生活に密着して生きている風景が心和ませます。

道端に、明智光秀の塚という「東梅宮」の碑が建っています。

塚に立っていた立看板に以下の説明がありました。

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「・・・明智光秀は山崎(天王山)の戦いで秀吉に敗れて、近江の坂本城に逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民襲われて自刃、最後を遂げたとされます。

家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが夜が明けたために、この地に首を埋めたと伝えられている。」

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碑から少し奥まったところに石塔と祠が祀られていました。

青蓮院にたどり着きましたが、まだ、8時半で、開門9時にはちょっと時間があります。門前にある喫茶店でモーニングで朝食をします。

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青蓮院について青蓮院公式サイトとWikipediaの記事をお借りします。

「日本天台宗の祖最澄(伝教大師)は比叡山山頂に僧侶の住坊を作りました。

青蓮院は、天台宗延暦寺の三大門跡と言われる、三千院、妙法院などとともに住坊の一つとされており、比叡山東塔の南谷にあった「青蓮坊」が起源であると云われています。

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平安時代末期に、青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七王子をその弟子とされます。

院の御所に準じて京都に殿舎を造営し、「青蓮院」と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりである。

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行玄が第一世の門主であり、その後、明治に至るまで、門主は殆ど皇族であるか、五摂家の子弟に限られていました。

青蓮院が最も隆盛を極めたのは、平安末期から鎌倉時代に及ぶ、第三代門主慈圓(慈鎮和尚、じちんおしょう、藤原兼実の弟)の時です。

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慈圓は四度にわたり、天台座主をつとめ、その宗風は日本仏教界を風靡、不朽の哲学の名著「愚管抄」を残し、新古今時代の国民的歌人として「拾玉集」も残しました。

慈圓は、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護しました。

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浄土真宗の祖、親鸞聖人は、上記慈圓門主のもとで得度したため、青蓮院は同宗の聖地の一つとなっています。

また衰微期の本願寺が末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くした蓮如もここで得度を受けています。

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建立時は広大な敷地を有していたが、応仁の乱の戦火にさらされ、さらに江戸時代、明治時代の火災により、建物はすべて消失した。

現在の建物は再建されたものである相阿弥の作とされる庭は当時のものが保存されている。」

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また、「徳川時代には現在知恩院のある敷地をとりあげられた。」という記載もありました。

例のごとく、御朱印帳を忘れていたことを思い出します。

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御朱印帳を忘れたら、それは信仰心の欠如と考え、あきらめることにしていましたが、せっかく京都に来て、それはないだろうと・・・

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意を決して、青蓮院の御朱印帳を求めてしまいます。

実はこれが悪い癖となり、唐招提寺の記念の御朱印帳、先週行った大覚寺で一冊と、とうとう手持ちの御朱印帳が4冊になってしまいました。

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自分が最初に求めた、三十三間堂の御朱印帳が、ようやく片面埋まったところなので、この4冊分のお寺を拝観して回るのは大変な努力が必要になりそうです。

こうなれば、いろんなバッグに一冊ずつ入れておくか・・・

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実は祇王寺に行ったときに、ここでは御朱印は押せないので、御朱印の紙を貼るだけといわれてちょっと唖然としましたが、まあこちらが忘れたのではなく、そういう決まりになっているのであればしょうがないかと。

受付をして、拝観を始めて、考えてみると・・・

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国宝「青不動」の模写の写真は自分の部屋の壁に飾られていますし、今まで何回も来ていたような気になっていました。

どうも、ライトアップを2回拝観にきただけで、昼間に青蓮院に来たのは初めてだったようです。

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ライトアップの印象が深かったので、明るい陽射しで見るとずいぶん印象が違う感じがしましたが、気持ちが落ち着きます。

ライトアップの時には宸殿側の広大な庭が主舞台となりますが、こうして昼間に拝観していると、池のある相阿弥の庭がぼんやりと眺めているのが自分には好みです。

少し天気が悪化しつつあるようで、知恩院に急ぎます。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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