サンフランシスコ空港19時出発のJAL001 便で羽田に飛び立ちます。
来る時の「JAL002便」で記載しましたが、JALの国際線の第1号であるサンフランシスコ‐羽田便に付けられた便名がJL001便(羽田行き)JL002便(サンフランシスコ行き)と言うことになります。
正確に言うと、まだ、アメリカ領であった、那覇便が国際線第1号になるらしい・・・
現在は最短コースの北周りの航路で往復していますが、当時はハワイ経由で、ホノルルに寄港する便だったということです。
ホノルル経由というのはちょっと魅力的な響きではありますが、実際にはホノルルでも燃料が足らず、さらに、ウェーク島で給油の必要があったということです。
今では、9時間程度の飛行である羽田からサンフランシスコが30時間もかかる大旅行だったようです。
そう言えば、もう50年も前になりますが商社に勤めていた兄がニューヨーク出張から帰国する際に、アラスカに寄港し、キングクラブを土産に買ってきてくれたことがありました。
当時の機体では北周りでも途中で給油が必要であったと言うことなのだと思います。
距離の長いニューヨークからの便だったからなのか、サンフランシスコからでも途中で給油が必要だったのかはわかりませんが・・・
自分が中学生の時、兄が最初にニューヨーク駐在に出かける時でした。
家族で、羽田まで見送りに行った記憶があります。
当時、ニューヨークもそうですが、「外国」と言う言葉は、やはり、とんでもない遠い所に行くという意識が日本人の心の中にあり、外国に駐在というとまず、空港まで見送りに行っていたのではないでしょうか?
朝、出かけようとすると、見慣れぬ女性が我が家に訪問してきます。
こんな朝から?
父が怒りまくって「みっともない、帰ってくれ!」と怒鳴り、女性が泣きながら去って行く様子が垣間見えました。
真相は判りませんでしたが、兄と浅からぬ関係にあった、お水系の女性が兄との別れを惜しみに羽田に一緒したいと言うことだったようです。
こんなこと、ばらしたら、天国の兄が怒るかもしれませんが、「やるな、兄貴」というところでした。
話がずれますが、その時、驚いたのは兄が目を潤ませながらも父になにも言わなかった、いや何も言えなかった様子でした。
その後も、明治丸出しの父にことごとく反発する自分と違って、父に対して、決して、反抗することなく、父の言い分を黙々と聞いている兄の姿を不思議な思いをしつつ見ていました。
戦災で、自分の目の前で兄の母と姉を失くした父と、疎開で被災を免れた兄はその後、二人きりで生きてきた、戦友みたいな感覚を共有していているような気がしていました。
兄の父に対する態度が、その強い絆のせいなのか、兄の性格なのか・・・自分には判りませんでしたが、おそらくその双方だったとは思います。
二人の絆に入り込ぬことを何気に感じて、なおさら反発していた自分がいたのかもしれません。
そういう兄は会社でも自分を余り表面にださず、それでも結局自分の思う方向に舵取りをする人間という見方をされていると言う話を会社の人から聞いたことがありました。
兄は二度のニューヨーク駐在を経て、自分が担当していた、人工降雪機の普及のために、ハンターマウンテン塩沢の開場の時に、自ら、運営に携わることになります。
村長さんを形の上の社長として、副社長として移り、その後、会社人の晩年を社長として過ごすことになったのですが、これも兄の辛抱強い人柄故だったのかと思います。
脱線が過ぎました。と言いつつ、どこからが脱線だかよく判らないけど・・・
自分がアメリカを行き来していた時でした。帰国便だった思います。
食事も終わりぐっすり寝込んで、ふと目が覚め、たまたま下方を写す機外カメラの画像を見た時に、丁度アラスカ辺りを通り過ぎるところでした。
白い氷の大地や島々が見えて、真っ暗い中で一人で感激して興奮してた覚えがあります。
その頃はJL001 便は成田‐サンフランシスコ便に移行していたわけですが、JALが苦しくなって、一時期この歴史的便であるサンフランシスコ直行便も廃止されていたのが、羽田の24時間化と共に復活したらしい。
JALも稲盛さんのお蔭で立ち直りつつあるみたいで・・・JAL派の自分としては頑張って欲しいと思います。
出発が19時なので、空港に17時まで行くとして、それまで何しようかと・・・とりあえず、街に出て見ようと、荷物をまとめてチェックアウト。
フロントに荷物を預けて16時にシャトルバスを依頼。
丁度、空港に向けて出発するシャトルバスがあり、飛び乗って空港に向います。空港からBARTに乗れば歩く必要なしと言う作戦です。
昨日と同じPowell Streetで下車。二人にお願いして、時間をもらい、ユニオンスクエアのMACYでお土産を決めます。
自分が買い物をしている間に、二人はチャイナタウン辺りを散策してきたようです。
お蔭でお土産も購入してさあどうしようか・・・
とりあえずユニオンスクエアの近くで食事をしようと・・・
アメリカらしいハンバーガーを食べようと入ったジョー・デマジオの名前がついたお店はランチメニューが決まっていて、まあ普通のアメリカンスタイルのランチでした。
さあ街でも散策しようと立ちあがって出口方向に歩き始めると、同僚が「あれはゴミですか?」と自分の座っていたところになにか影があるのを見て、指差します。
戻って確認するとなんと自分の財布が、ズボンのポケットから滑り落ちて、シートの上に転がっていた次第。危ない所でした。感謝です。
腹一杯になってさあ、歩く方向を決めようと・・・
自分は行ったことがないのですが、ジャイアンツ球場は街から歩いて行ける距離にあると聞いたことがあるので、ともかく探しに行こうと歩き始めます。
ベイブリッジ方向だろうと東に向い歩き出しましたが、むしろ南方向にあったようです。
途中で南の方向を指して、「あそこに球場のライト見たいのがありますけど・・・」という話もあったのですが、まあともかくとベイブリッジに向けて歩き続けました。
結局そのライトらしきものだったのが球場だったようで、大分戻る感じでジャイアンツ球場に到着します。
イニングは6回くらいに来ているみたいです。
テレビでしか見たことのない、アメリカのボールパークの雰囲気を味わってみたい・・・ダフ屋もいるし、2000円位で入れるので、どうだろうか・・・一人が行きたくないと・・・
一人残して二人で入ってしまおうかと思いましたが、入りたくないと言う人間がアメリカに慣れていない人間で、初日の朝に朝食を食べたいけど、どうやればいいのか判らず、自分が降りて行くまで、フロントの椅子に座ってぼんやりしていたのを思い出します。
まあ、いいかと、諦めて、場外のカフェでテレビを見ながらアイスティーで一息つきます。
カフェのテレビで見ていると、ゲームは一方的にジャイアンツが負けてきて、8回くらいなると大勢のジャイアンツファンが外にでてきます。
日本ではサッカー観戦はジャージを来ているファンが多いけど、野球場では、球団のロゴ、ないし、球団カラーのものを身につけているのはごく一部のファンという感じがあります。
最近、球場に行っていないので、今の状況を判っていないけど・・・
自分は恥ずかしながらヤクルトファンなのですが、神宮に行く時でも、雨傘を持って行ったことはありません・・・
神宮の近くに、美味しい焼き鳥屋があるのですが・・・って関係ないか・・・
ここサンフランシスコでは、球場から出てくるファンはほとんど、ジャイアンツ関連グッズを身にまとっていて、老いも、若きもオレンジ色が乱れ飛ぶ、と言う感じ・・・
サンフランシスコを堪能して、3時ごろホテルに帰還、少し早目ですがシャトルバスが来てくれて空港に向いました。
帰りの飛行機では見る映画に困り、「デンジャラス・ラン」をもう一回見ようかと思いましたが、「岳」があるのでまあ見てみようかと・・・
途中まで見ていましたが、小栗旬が三歩の得意なセリフ、「頑張った、よくやった!!」と叫んだ途端に、漫画の三歩との隔絶感を感じて、がっかりして続ける元気がなくり中断。
三歩は誰が良いんだろう・・・
「バトルシップ」に変更しましたが、すっかり寝てしまい、最後の所だけ見ることになります。
眠る前には落ちこぼれだった主人公が英雄になっていました。
見返す気力も湧かず、「スノー・ホワイト」を・・・ジュリア・ロバーツが悪役に徹するコメディで、これは面白く最後まで楽しみました。
羽田に22時40分到着予定が21時半ごろ到着。
1時間程待つと自分の実家の四街道までのバスに乗れますが、その前に千葉まで行くバスが何本からあります。
実家に電話し、千葉まで迎えに来てもらうことになり、二人と別れて、バスに乗り込みます。
途中稲毛海岸駅近くで、東京駅の近くに泊まる予定の同僚から電話があり、一瞬緊張します。なにかあったのか・・・
「無事着きました。」って・・・・
後日、ホテルの近所で火事があり、ホテルに近づけずに、ようやくたどり着いたことを聞き、電話をくれた彼の気持ちが判りました。