継体天皇の話が長くなりすぎたので、文室川の写真が尽きたところで記事を分割しました。ということで継体天皇の話が続きます。
男大迹王は、単なる皇室の血筋の越の国の大王というだけでなく、王朝の主となる実力を兼ね備えていたらしい。国内に様々なネットワークを有し、近畿も含めた広範な地域に力を持っていたことがうかがえるようです。
伊勢湾を舞台に活発に行われていた各地との交易や、美濃国の良質な鉄鉱石産地を押さえていた大豪族からは目子(めのこ)媛をめとったように、周辺の豪族より8人の后を迎えた血縁ネットワークを形成していたようである。
また、軍事用の馬を飼った集団で牧(牧場)を抱えた豪族であり、当時、軍事関係の最先端にいたといわれる河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)にもつながりがあり、有力な情報を得ていたという。
継体天皇は高齢の即位ということになったが、尾張連草香の娘・目子媛との間に生まれた勾大兄皇子(27代安閑天皇)、桧隈高田皇子(28代宣化天皇)と二人の息子たちが40歳を過ぎた年齢となっていた。
皇子達が後継ぎとして頼もしい存在になっていたことも、天皇として認められていくことの理由の一つであろうと。
継体天皇の崩御についてはまた謎に包まれているようです。
日本書紀には継体天皇は531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御したとありますが、同時に『百済本記』を引用して、天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性についてのべているとのことです。
531年はやはり継体の子である第29代欽明天皇が即位した年という説もあり、そうすると継体のあとは欽明ということになり、安閑、宣化の皇位の期間は存在し得なくなる。
ここから、二人の皇子は継体とともに殺害されたということになるようです。
にわか勉強のくせに、原本を読み解く力もない自分には、全く判りませんが、6世紀の初頭に、北陸と近畿を行き来する交流と、抗争があったらしい・・・と、思うだけで、空想を掻き立てられ、わくわくしてきます。
文室川沿いに少しだけ遡ると、桜並木とは少し離れたところにかなりの樹高をもった桜がありました。
後でお目にかかった、花筐公園の薄墨桜に趣が似ていましたので、味真野小学校の桜とともに、エドヒガン桜なのだと思います。
川沿いの桜を堪能したあとに真宗出雲路派本山、毫摂寺に向かいます。
広大な敷地を有した本山で、ちょっと驚きます。ホームページの記述をお借りします。
天福元年(1233)、宗祖 親鸞聖人が山城国愛宕郡出雲路(現京都市左京区)に草庵をつくり長男 善鸞上人(2代)に附与されたことを始めとする。其の後、 善入上人(3代)を住持に迎えて今出川に毫摂寺を建立。
応仁の乱の兵火で京都の堂宇は灰燼に帰し、善幸上人(5代)が越前山元庄(現鯖江市水落)に下向して証誠寺に寄寓します。
善鎮上人(8代)は山元庄に毫摂寺を再興し、府中御堂陽願寺(本願寺派)を建立しましたが、天正3年(1575)、善秀上人(11代)のとき、織田信長軍と一向一揆勢の戦いに巻き込まれて堂宇を焼失。
善照上人(12代)が慶長元年(1596)、現在地である清水頭に寺基を定め、再建。この後に行った城福寺の説明では当時の城福寺住職が味真野での再建に協力したということが記載されています。
光明天皇、後柏原天皇、後陽成天皇より勅願所の綸旨を賜り、江戸時代は院家として天台宗青蓮院に属していました。
御朱印をいただこうと思ったのですが、寺域が大きすぎて、どこにお願いしていいかわかりませんでした。
御影堂で親鸞聖人をお参りして、城福寺に向かいます。
城福寺は平頼盛の長男保盛開基の真宗寺院。
頼盛は池禅尼の子で、池禅尼に命を救われ、恩義を感じていた源頼朝に許され、官職に復帰、その子、保盛は越前守として、武生市真柄に赴く。
其の後m出家して、平氏一門の菩提を弔ううち、親鸞聖人の北国流罪行の際に、如成の法名をいただき、城福寺を建立、のちに現在地に移されました。
4月2日の福井新聞に満開写真の乗っていた、城福寺の継体天皇ゆかりという「花筐桜」はすっかり散っていました。
新聞記事のコピーを手にしたご夫婦が茫然としています。「この写真見てきたんですけど・・・」って。
お寺の方に聞くと、満開時期が短くて、白い花が咲いて、ピンクがかってきたなと思った途端に、散ってしまうのだそうです。
そういえば自分もその記事を見て、どこの桜と明確でないまま、ネットで新聞の写真をダウンロードしていたことを思い出します。「あっ、そうか、あの桜がこれだったのですか・・・」
そういえば自分もその記事を見て、どこの桜と明確でないまま、ネットで新聞の写真をダウンロードしていたことを思い出します。「あっ、そうか、あの桜がこれだったのですか・・・」
お寺の方に聞くと、満開時期が短くて、白い花が咲いて、ピンクがかってきたなと思った途端に、散ってしまうのだそうです。
花筐公園に辿り着きます。神社の参道を車で入ってしまったようで、えらく狭くなります。
通りかかった郵便配達の方にお聞きして、広い駐車場のある道になんとかで出ることができました。
継体大王が皇子の頃、暮らしていたと言われるのが越前市粟田部町の花筐公園周辺ということです。
時間も大分過ぎ、ともかく花筐公園までたどりつこうと急ぎます。寄ろうと思っていた小丸城址を見逃してしまいました
公園の道を歩いていると「薄墨桜」の道標がありました、約1㎞登るとあります。
標識を見て、うんざりして帰っていく人もいました。まあ本日の最後にと頑張って登ります。
途中に薄墨桜から株分けしたとされる、孫桜があります。
陽の射さないうっそうとした森の中にあるエドヒガンザクラはそれはそれで見ごたえがあるものでした。
さらに登る途中の山中に大きな桜が咲いていますが、樹々にさえぎられて、全貌を撮ることができませんでした。
道端にも春を知らせる花が足元を彩っていて写真を撮りながら進みました。
頂上の薄墨桜は圧巻でした。
もう夕方になろうとしていますが、まだまだ青い空に薄いピンクがきらめいていました。
うすずみざくら(淡墨桜)は、岐阜県本巣市(旧・本巣郡根尾村)の淡墨公園にある樹齢上のエドヒガンザクラの古木が有名です。
Wikipediaで見ると、淡墨桜は蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむ。
樹高16.3m、幹囲目通り9.91m、枝張りは東西26.90m、南北20.20m。樹齢は1500余年と推定され、継体天皇お手植えという伝承がある。
こちらの薄墨桜は字がことなりますが・・・花筐公園の説明をお借りします。
公園内にある福井県指定天然記念物の薄墨桜(樹齢600年以上)は、継体大王が、愛する照日の前に形見として残したものとも言い伝えられ、その後、次第に色が薄くなっていったため、薄墨桜と呼ばれるようになったといわれています。
今立地区全制覇はできませんでしたが、頭の中が桜色に染まる一日で大満足で帰路につきました。