古文書の勉強で、月2回のペースで通っている朝日カルチャーセンター千葉教室に、観世流および金春流の能楽師による謡曲、仕舞の講座が開かれています。
その能楽教室の一貫の流れだと思うのですが、教室を開かれておられる観世流大松 洋一さん指導で、能を鑑賞後、能楽堂の舞台、および舞台裏を見学する企画が募集されており、教室に通っている人間以外でも参加できると。
会場はGINZA SIX観世能楽堂。仕舞、狂言、能「誓願寺」鑑賞と、能楽終了後のバックヤードツアーがセットになっています。
昨年、神田明神の薪能を鑑賞し、大鼓の音に魅了されました。テント張りの薪能というちょっと違和感のある設定でしたが、幽玄の世界、いいもんだなと思いました。
と言っても、その後、「能」自体を勉強するでもなく、知識は深まっていませんが、2月初めから予約受付が始まった、今年の神田明神薪能を予約し、他にも、機会があれば接してみたいと思っていました。
今回能楽を楽しんだ後に、バックヤードを見学できるのであればなおさら面白そうです。
奥さんに話すと、即、行きたいと。さらに、2月21日に「目利きの東京散歩」のタイトルで三越、高島屋などを歩くツアがあり、それも行きたいと、言うことで、双方に二人で参加することになりました。
観世流ホームページによると、大松洋一師は岐阜県御出身で中央大学法学部卒、観世流シテ方能楽師、能楽協会会員。
故、二十五世観世流宗家観世左近の直弟子木月孚行氏に師事。とあります。
今回の講演はサブタイトルに第78会「華曄会」とあり、その華曄会の主催者として木月さんと大松さんのお名前が記載されているので、師弟で開催されている会ということらしい。
能舞台には、白足袋を履かずに上がることは出来ず、靴下、裸足などは許されない、白足袋必携、という旨がチケット共に送られてきた案内に記載されていました。
当方は奥さんにお願いして揃えてもらいましたが、足袋を持たずに来た人は舞台にあがることができず、切り戸から寂しそうに覗くだけで終わることになりました。
GINZA SIXの能楽堂入り口には「二十五世観世左近記念 観世能楽堂」と記載があります。
タイトルの二十五世は、現宗家の父親で、観世流の謡本である『観世流昭和大成版謡本』をまとめあげて、刊行という功績を残したのだそうです。
死後、その遺志をついで財団法人観世文庫が創設され、この能楽堂にも名前を遺すことになったということらしい。
観世流は、約700年前の南北朝時代、観阿弥が初代とされる。観阿弥とその子世阿弥が室町幕府三代将軍足利義満に認められ、勢力を伸ばし、江戸時代に全盛時代を迎えます。
その後、明治維新や第二次世界大戦など、伝統文化が排斥されそうになったときにも、そのときどきの家元たちの努力により、能の伝承の保持と後継者の育成につとめてきた。その活動拠点となっているのが、観世能楽堂であると。
現在能楽には五大流派があるが、観世流はその中でも約900人の能楽師を擁する最大流派なのだそうです。観世流の宗家は世襲制で、現在宗家は二十六代目の観世清和。
観世流の能舞台は松濤にあった旧能楽堂が、老朽化もあり、2015年に閉鎖され、十世大夫、重成が土地を拝領してから約200年間本拠地を置いた観世流にとって所縁の地、銀座に戻ってきたということなのだそうです。
今回の企画で、能は、大松師がシテ方の「誓願時」でしたが、師自ら準備いただいた説明資料には詳細な背景説明と詞章(セリフ)が記載されていて、面白くて寝るヒマもなかったというところでした。
と、まあ、そう言つつ、2,3回は意識が行きそうになったことは確かですが…
「誓願時」は時宗宗祖、一遍上人(ワキ)が熊野三社に参籠して、行を収め、布教のために京の誓願時を訪れた時の話です。
和泉式部(シテ:大松師)の亡霊が現れるが一遍にお札を示され、安寧を与えられるやりとりを描いている。
和泉式部は和泉守、橘通貞と結婚し、後に歌人としても認められる娘、小式部内侍を設けたが、冷泉天皇第三皇子、為尊親王との恋愛沙汰で、離縁。Wikipediaでは結婚生活破綻後に恋愛関係になるとありますが…
一時石山寺に籠もるが、都に戻り、為尊親王との不倫を貫く。親王が若くして病死、その後、親王の異母弟の弟敦道親王に召人(側女?)として迎え入れられ、一子をもうけるが敦道親王も早世する。
歌の才能を認められ、藤原道長の娘、彰子に仕え、その後、藤原保昌(酒呑童子退治に関わる)と結婚するが、親王を忘れられず、百人一首に取り上げられた晩年の歌は親王を想ったものらしい。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな」
この激しい愛に彩られた人生と親王への変わらぬ想いが、彷徨う魂の最適な題材として採り上げられということでしょうか。
一遍上人は天台宗で出家、その後、浄土宗を学び、一旦還俗するが、世俗の争いごとにつかれ、再度出家し、浄土宗の布教に務める。
一遍が布教に迷い悩み、熊野本宮に参籠した時に、阿弥陀如来の本地垂迹身である熊野権現が夢に立ち、「衆生済度のためには、信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」と告げられたとされる。
ここで、「智真」であった名前を「一遍」と改め、今まで渡していた念仏札の文字に「六十万人、決定往生」と追加するようになった。この時をもって「時宗」開宗とされている。
「六十万人」は下記の文言の頭文字を取ったもので、ただ一筋に「決定往生南無阿弥陀仏」と、念ずれば、皆、必ず、極楽往生がかなうことを言う。
六字名号一遍法
十界依正一遍躰
万行離念一遍証
人中上上妙好華
決して人数のことを言うのではないのだ、という意味のことが和泉式部とのやりとりの中で、説明されています。
観阿弥、世阿弥は時宗の法名をもっていたとうことですから、その作品の精神性に一遍上人が影響を与えていると言うことなのかも知れません。
そう言えば、時宗は「踊り念仏」として盛んになりますが、なにか能楽に関係があるのかしら。
舞台板は閉鎖、取り壊された松濤の前能楽堂から移設したもので、年期の入った感じでした。
シテは能面をかぶると、視界が狭まるため、板の目と柱の見え方で自分の立ち位置を知るのだそうで、確かに舞台のギリギリまでを使った舞に驚きを感じていました。
正直言うと、面をかぶるシテは全てこの世のものではない、ということを、今回初めて知りました。恥ずかしながら….
少しだけ入り口をくぐりかけた感じですが、ボチボチと楽しんで行くか、と考えています。