「越の秀嶺」1224 雪しきり

22日は忘年会、23日は日本酒を飲んでちょっと頭が重い。

天気が良ければ野坂へと思っていましたが、雨模様で諦めて、写真の整理をしてました。って、結局全然進まずで一日が終わります。

明けて24日も天候は今一、昨日より野坂が白さを増しています。

夜中に洗濯機を回していて、乾燥をどうしようか・・・今のアパートに入る時に、乾燥機付で洗濯機をいただいたのですが、乾燥機は2年程度で故障してしまいました。

重すぎて修理に持ち出すのも難しそうで、諦めてタオル用整理棚に転向しました。

コインランドリに持って行って百円玉コインを4個入れて、さあ40分間どうしよう。

出がけにアパートから野坂が見えていたので、慌ててカメラを持って出たのですが、今や厚い雲に覆われていて、再び姿を見せる気配がありません。

雪の西福寺を拝みに行こうと・・・それにしても雪が激しい。

大原山西福寺は浄土宗良如上人の開基による浄土宗鎮西派(総本山智恩寺)寺院、「越の秀嶺」の呼称があります。

中本山との記載があります。意味を調べようと思いましたが、浄土宗公式サイトには総本山、大本山の記載しかなく、寺院紹介の西福寺には中本山の記載がありませんでした。

一時期、大本山に次ぐ「中本山」としての格付けをいただいたということなのかなと思います。

また「良如」を調べましたが、江戸時代の真宗西本願寺13世「良如」がヒットしますが、南北朝の浄土宗「良如上人」の記事はみあたりませんでした。

以下西福寺でいただいたリーフレット、「舎利如来(骨佛)の由来」資料および大原山西福寺公式サイトを参考にしました。

時代は南北朝時代の1344年、良如上人は越前府中(武生)に生まれ、長じて京都の浄土宗大本山清浄華院の第八世敬法大僧正の弟子となります。

1368年、良如上人25歳の時に念仏の教えを広めるため諸国行脚し、故郷の越前を訪れます。

敦賀の地において阿弥陀仏、観音菩薩、勢至菩薩の三尊の姿をご覧になり、仏のお導きと悟られた上人は、時の天皇後光厳天皇の勅許、足利義満の力を借りて、西福寺を創建します。

縁起によると、「上人が敦賀にこられた時に西の方角の山(三内山ということか?)の中腹に紫の雲がたなびき、不思議な光が煌々として輝き、光の中に三尊が現れた。

上人が、光明に導かれて、脚を運ぶと、突如一匹の白狐が現れ、山の麓まで上人を案内し、白狐は姿を消し同時に光源の三尊はにわかに巨石と変じた。

これが西福寺書院庭園にある「三尊石」と呼ばれる石である。」

名勝に指定されている書院庭園は江戸中期の造立で、この三尊石を中心に阿弥陀仏と二十五菩薩の来迎の様子を立体的に現したものとされています。

西福寺開設1368年は変革の年でした。南朝で後村上天皇の崩御、北朝方で足利義満の第三代将軍就任の年にあたります。

また中国大陸では元朝が滅亡し、漢民族の明朝が建国された年でもあった。

大改修中の御影堂

良如上人は西福寺を拠点として近江、越前、若狭に念仏を広めて行き、百寺余りの寺院を創建します。

また、越前守護、沙彌道将、藤原将経等の一門が、山林田畑を寄進して帰依するなど信徒が広まって行きました。

西福寺御影堂法然上人像
晩年のお姿を映し取ったのでしょうか。まさに今、念仏を唱えておられるような迫力があります。

師匠の敬法大僧正はその最期にあたり、良如上人を清浄華院に呼び寄せ、代々伝えられてきた念仏の秘法を伝授し、良如上人に後事を託して、亡くなります。

北朝天皇として即位した第百代後小松天皇は良如への信仰心篤く、戦乱の世の中を憂い、良如上人に「国家安穏」の祈願を西福寺で執り行うように勅命を賜ります。

<阿弥陀堂>
※一乗谷から移築したとされている。阿弥陀、観音、勢至三尊を納める。開帳されていないようでした。

その願いの功あってか、後小松天皇の御代の1392年、南北朝統一がなり、後小松天皇が統一天皇として即位し、西福寺は勅願寺の名を拝領することになります。

西福寺の創建から44年経った1411年2月3日、良如上人は浄土に召されます。

御歳69歳の時でした。

『阿弥陀仏と、唱える声のへだてなく、来たり迎ふる紫の雲』が上人の辞世とのこと。

良如上人が亡くなるにあたり、上人を迎えるために庭園の三尊石の上に姿を現した三尊のお姿を、居合わせた人がもれなく見たのだそうです。

以前に記載しましたが(「三内山/西福寺遠景0107」)、皇室及び五摂家の方が御住職になられると「門跡」とよばれますが、徳川御三家・御三卿と越前・会津の方が御住職となられた寺のことを「秀嶺」とよびます。

徳川時代に入ると、徳川家が浄土宗に帰依していたこともあり、徳川家と所縁の深い福井藩との繋りが多く、松平家の子息が僧正となることがありました。

特に、二十一世見蓮社正誉上人良和呑榮大和尚は福井藩主結城秀安の庶子であり、西福寺再興に寄与します。

西福寺が「越の秀嶺」と呼称される所以です。

今回初めて知ったのですが書院の拝観入り口に「北陸初の骨佛の寺」と記載がありました。

「骨佛」というのは、納骨された遺骨をコンクリートで固めて舎利如来(阿弥陀如来)を建立することを言うのだそうです。

全国に骨佛で知られるお寺は幾つかあるようで、中でも大阪の浄土宗一心寺と言うお寺が有名なようです。

西福寺では昭和46年に第1体を泰造、その後10年ごとに1体が造立され、現在4体が舎利仏如来堂に納められています。

知らずにお参りして、色の白い阿弥陀様だなと思いました。遺骨で作製されたことを知り、ちょっと自分の中では、しり込みをする部分がありました。

良如上人亡き後、北陸の念仏宗徒は上人の御教導の「倶会一処」の教えを信じ、極楽浄土での良如上人との再会を念じて、西福寺の上人の墓所に納骨されることを希望するようになります。

「倶会一処」とは「念仏を唱え、極楽往生すれば、宗教的なな大善を積んだ人々と一処に会同することが出来る。」という意味とのことです。

西福寺では信者の願いを受けお骨を預かり、10年毎に大供養を執り行い、良如の墓所に納骨していました。

昭和45年、第四十九代證誉隆玄上人が埋葬してしまう代わりに遺骨によって、阿弥陀如来を造立して現世の苦難および子々孫々の救済することを願い、第1体の造立を行った。

その後、納骨された遺骨に対して、毎年の回向をし、10年毎に阿弥陀仏の造立をし、現在4体の骨佛がされた舎利如来堂に納められてます。

濡れた雪は降り続き、傘を忘れたため、上着で庇いながら撮影していましたが、Kiss4はダウンしてしまい、正月はコンパクトデジカメで過ごすことになりました。

本記事は年末にアップするつもりでしたが、年を越してしまいました。

今年は1212年1月25日(旧暦)に京都東山の現知恩院で法然上人が入寂されてから、800回忌にあたるのだそうです。

昨年1月25日に兄の「お別れの会」に参列して、兄の「無宗教」と「般若心経」の狭間を覗いた思いをしました。

自分は未だに自分の中の「宗教」を整理しきれないまま、一つ齢を重ねることになります・・・

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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