西明寺を後にして松峰山金剛輪寺に向います。
昨年の金剛輪寺の紅葉の事は「金剛輪寺1128」(2011年1月17日)で記事にしました。
「血染めの紅葉」をバックにした不断桜が鮮やかに記憶に残っています。
・・・こう書いて気が付きましたが、昨年も1月に旧年の11月の記事を書いている・・・状況は変わらずです・・・
ちょっと雨模様の中、金剛輪寺にたどり着きます。
昨年に比較するとなんとなく紅葉が透けている感じ・・・紅葉真っ盛りのつもりが・・・冷や汗がつつーっと・・・
受付の裏にある、納経所に御朱印の受付に御朱印帳を預けます。記載しませんでしたが、西明寺でも御朱印をもらっています。
最近、自分は三十三間堂で購入した御朱印帳を持ちあるいているので、奥さんのと自分の御朱印帳2冊を預けます。
かっては御朱印は奥さんまかせでしたが、三十三間堂でちょっと病みつきに・・・でも目の前で書いてくれるところは少ないようです。
最初の印象の通り、紅葉は大分盛りを過ぎている感じでした。
昨年は受付を過ぎた途端に、「血染め」の赤と派手な黄色の葉の対比が毒々しいほどの鮮やかさで、今までにないイメージで迫ってきて、自分には新鮮でした。
「ここはすごいから」と奥さんに説明していた風呂敷がしぼんでいきます。
縁起については昨年、記載しましたが、ここでも簡略に・・・
天台宗、松峰山金剛輪寺は天平13年(741)、聖武天皇の勅願で行基によって開山され、行基が生木に彫った聖観世音菩薩が秘仏として本尊とされています。
本堂に慈恵大師の像があります。ホームページのお写真と文章をお借りします。
「慈恵大師良源様(912〜985)は第十八代のお座主であり天台宗中興の祖と称される。」
高月の高野神社で拝観した伝教大師像が実は慈恵大師のお姿を現したものだという説明がありました。参照「伝教大師像」
伝教大師像の時に慈恵大師について深く調べませんでしたので、金剛輪寺の座主を務められたことを今回初めて知りました。
今まで尊師像を幾つかのお寺で拝観してきましたが、高月の伝教大師像は、自分の中では、未だお姿御を拝観できず、お写真でしか知らない唐招提寺の鑑真和上像に並ぶお姿として心の中に焼き付いています。
高月の「ふるさとまつり」は町内の仏像を公開するお祭りで、毎年8月第1日曜日に開催されています。
昨年は手術で入院中で、行くことが出来ませんでした。今年は是非訪れて、「伝教大師像」に再度お参りしたいと思っています。
庭園に入ります。リーフレットによると、本庭園は桃山時代、江戸初期、中期の部分がある「池泉回遊式庭園」で国の名勝に指定されているとのことです。
お茶室、水雲閣の周囲も昨年とは様変わりで、寂しいことになっていました。
庭園に咲いている不断桜のバックに昨年のような「血染め」の赤を求めるのは無理な注文です。
それでも部分部分には紅葉が残っています。
庭園の奥まで行くと、庭園の脇を本堂の方向に登って行く道がありました。庭園を上からのぞきながら歩き、参道と合流します。
昨年来た時には、この道に気が付きませんでした。庭園の奥で行き止まりと思って参道に戻って登り始めました。
通る人は少なく、落ち着いた気分になります。
道は地蔵堂のところで参道と合流します。
前に来た時にちょっとビックリしたのですが、地蔵道の近辺と参道にびっしりと千体地蔵が並んでいます。
「千体」と言うのはきっと多くのと言う意味を表す言葉で、千体では済まない数の様な気もします。実態は2千体はあるのではという記事もありました。
千体地蔵には個々に風車が備えられています。 地蔵尊がどの様な経緯でここにあり、どのような意味を持って祀られているのか、ホームページでも説明はありません。
誰も歩いていない時に、この風車が一斉に廻っている様を想像すると、なにか霊的な事象が迫りくる予兆・・・という映画のシーンがありそうな気がします。
8月9日には嵯峨野化野念仏寺の千灯供養のように各々に灯りがともるのだそうです。今年は8月9日は平日みたい・・・
自分にはお地蔵さんに関して冷や汗ものの思い出があります。何年前、十何年前、何十年前かも覚えていません。
京都の「哲学の道」を歩いている時でした、道端のあちこちにお地蔵さんがおられて、お供えがされています。
3、4人の若い男女のグループがいて、自分が通りかかると「これ、何ですか?」って訊いてきました。
一瞬、お前ら、いい歳して地蔵指差してこれなに?ってないだろうとムッとします。からかっているんだろうと思って無視してしまいました。
その後抜きつ抜かれつしているうちに彼らが中国からの観光客らしいことに気が付きました。「ああ、本気で判らないで訊いてきたのを「しかと」してしまったのか・・・」と反省します。
と言って、再度呼び止め、謝って説明するだけの知識を持ち合わせていない・・・ぐずぐずしているうちに謝りそびれてしまいました。
本気で訊かれたと受け止めたとして、地蔵に対して自分はなにが説明できたのだろう・・・と自問してしまいました。
・・・道祖神として地元の霊を慰めるために祀られている・・・程度の説明になったのだろう。
「地蔵とは?」と言う直接的な問いかけに対して地蔵尊の由来なり、道端にある理由、どのような信仰に支えられているかなど、明確なことを外国の人に説明はできない・・・
自分が外国に行くと、地元の人は自分の住んでいる場所のことは全てが判っているに違いないとばかりに質問攻めにすることを思い出します。向こうには迷惑なことだったのだろう。
それにしても自分の採った態度は気がつかぬ事と言え、外国人の方にに対して、著しく問題があったと思います。
後に、上海の人混みで向こうから肩をぶつけてきて、人のことを睨みつける若者が居て、あのときのお返しか、それなら何も言えない・・・と、まあこれは今思いついたこじつけです・・・
「地蔵菩薩(サンスクリット語「クシティ・ガルバ」)は、釈迦入滅から弥勒菩薩の現れる56億7千万年間の混乱の間に「六道」(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩とされる。
クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味なのだそうです。両者を合わせて「地蔵」であると、これはまた素晴らしい翻訳だなと思います。偉そうに言って畏れ多いのですが・・・
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされ、一般的には「子供の守り神」としての信仰を集めている。」
六道を救うと言うことで各地に六地蔵が置かれている例が多いのだそうです。己高山におられる六地蔵尊に意味があることがわかりました。
「日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、地獄へ堕ちるという信仰が強まり、地獄における責め苦からの救済を地蔵に求めるようになった。
賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守るという民間信仰もあり、子供や水子の供養でも地蔵信仰を集めるようになり、関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われています。
また道祖神と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られている。」(Wikipedeiaを参照させていただきました。)
自分が地蔵を道祖神として説明しようとしていたのは全くの間違いということではないけど、本質からは外れた解釈になっていたことになります。
余分なこと言わんでよかったという部類に入りそうです・・・
帰りに御朱印帳を受け取りに納経所によると、係りのオバサンが緊張しています。
ページでも間違えたのかな、まあそれでもいいやと、オバサンの言葉を待っています。
「御主人の御朱印帳の日付を間違えて12月4日にしてしまいました。
せっかくのお二人の記念の御朱印だったのに日付がずれることになってしまって・・・大変、申し訳ありません、お金は要りません。」
二人の記念というほど大それたものでもないし、2冊の日にちが違っても、却って記憶に残っていいかもしれない。
御朱印をいただき、300円を払うことは寄進の意味があるのだと思うので、払うと言っても受け取ってくれません。まあ、有り難くいただくことにしました。
大分暗くなってきました。百済寺に急ぎます。