百済寺1203

天台宗釈迦山「百済寺」(ひゃくさいじ) にたどり着きます。大分暗くなりかけています。


たどり着いた百済寺の紅葉ももう盛りを過ぎているのか、曇り空の夕方であることを差し引いても少しさびしい気がします。ここでも御朱印帳を預けます。

百済寺の名前はちょっと異質な感じがしますが、当然百済国と関係が深いようで、推古天皇の御代に聖徳太子の御願により百済人のために創建された寺とされています。

百済寺のホームページを開くと御住職 濱中亮明の百済寺の縁起に関する文章が載っています。

若狭に関連する話が出てきて興味深いので、要約して紹介させていただきます。

「弥生時代から多くの渡来人が韓(朝鮮)半島先端から日本海流に乗り若狭に漂着し、冬場の豪雪を避けて近江へと南下してきました。

彼らは当時の先端技術(製鉄、潅概、土木、建築 )や漢字、仏教などの先進文化を近江にもたらし定着させます。 5世紀ごろには愛知川の流域に水田地帯を築き上げていました。

6世紀の韓半島は高句麗、百済、新羅の3国がせめぎ合い、大陸には強大な隋が勃興。

国家間の均衡が不安定となり国境での軍事的衝突が恒常化します。

軍事的に脆弱であった百済国王は、万一の事態に、国民を避難させる安全な場所として日本の飛鳥、斑鳩を考え、調査のために、高句麗より亡命した僧、慧慈を派遣しました。

慧慈が斑鳩に到着して目にしたものは、聖徳太子の元服式でした。

慧慈は聖徳太子の資質を高く評価し、将来百済の危難の際に頼るべき人物として国王に報告します。

国王は「太子の教育係を申し出て、仏教をはじめとする慧慈の持てる全知識を太子に与えよ」と命じ、慧慈は太子との間に緊密な師弟関係を築き上げます。

慧慈は、教育の一環として斑鳩・奈良・宇治・紫香楽・湖東・湖北・若狭のルートで太子を旅案内して知識・教養・人格の高揚に努めました。

何故、若狭まで旅をしたのだろうか?

韓半島の先端から文物を乗せた筏を浮かべて日本海流に乗せれば数日で若狭に漂着します。

即ち、百済の先進技術・文化の漂着ターミナルが若狭であることを知った上で慧慈は若狭を目的地に選んだと考えられます。

この斑鳩〜紫香楽〜湖東〜若狭ルートを筆者は『太子の道』と呼びます。

この「太子の道」の街道筋には、渡来系、とくに百済系の人々の集落が連綿と点在し、今日でも渡来系を意味する地名が多く残っています。

また、若狭〜斑鳩を結ぶ「太子の道」には「お水取り」の東大寺二月堂があります。

若狭から通じる地下水脈の「清水」を奈良で汲み上げれば大和(日本)に愈々春が来る、と言う行事が3月に行われます。

松本清張は、「お水取り」に対し、下記の様な記述をしています。象徴的に過ぎる気がしますが、面白い見方だと思います。


すなわち、「若狭に漂着、上陸した半島・百済の先進文物(清水で象徴化)を汲み上げることにより、日本が近代化する(=春が訪れる)ことを示しているのだろう。」と。

聖徳太子と慧慈が現在の百済寺の地を訪れた時に、山中に瑞光を見ます。

瑞光の基を訪ねると上部を切り取られた樹があった。

切り取られたその上部の樹を用いて十一面観世音菩薩像が彫られ、百済の龍雲寺の御本尊に祀られたということであった。

聖徳太子はこれぞ仏像を彫り出すべき御衣木(みそぎ)であるとして、下半分の樹に十一面観世音を彫り始めた。

推古天皇14年(606年)10月21日であった。その時をもって百済寺の開基とされているとのことである。

聖徳太子の彫ったこの像が秘仏、御本尊十一面観世音菩薩像となっています。

御本尊は公開されていませんが、下記の如意輪観音半跏思惟像が特別展示されていました。ホームページよりお写真をお借りしました。

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本堂は土足でそのまま上がります、内陣の前に赤と黄色の鐘馗様(と、思うのですが、記憶が定かでありません)がおられて、なんとなく異国の趣が漂います。

日本のお寺の格式ばった厳かな本堂ではなく、上海、台北のお寺で見たようなオープンな感じで大衆に根付いている雰囲気というのでしょうか・・・自分には韓国のお寺のイメージがありませんが・・・

創建時の建物は残っていないのですが、当時の本堂は百済の龍雲寺を模して建立され、高句麗、百済の僧が勤めたということで、他のお寺とは異質な成り立ちということが言えるのかもしれません。

紅葉は盛りが過ぎているせいなのか、もともとそれ程、紅葉の密度が低いのか、あまり目立つ感じではありません。

ホームページを見ると紅葉より桜の季節がよさそうな感じがします。

平安時代になると百済寺も天台宗のお寺となり、塔頭三百余坊を数える大寺院となり鎌倉室町時代に至ります。

その後火事により多くの建築物を焼失しますが、なお、まだ寺勢を保っていました。

戦国時代、六角定頼が足利将軍家の管領代となり、近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げます。その勢力は伊賀や伊勢の一部までにも影響力をおよぼし、六角氏の最盛期を創出します。

六角氏は近江の防衛上、観音寺城と並んで百済寺を城壁化して『百済寺城』とします。さらに、近隣に鯰江城(森城)や青山城などの出城を築いていきました。

武田信玄の死により背後の脅威を断つことのできた信長は、京への道に立ちふさがる六角義賢・義治父子に攻めかかります。

六角と信長の対峙するなか、百済寺の宗徒は長年の恩義を重んじ、兵糧を六角氏に差し入れると同時に妻子を300坊に預かります。

これに激怒した信長は百済寺焼き討ちを断行、百済寺は半月もの間、燃え続けたのだそうです。御本尊以下数体の仏像と重要な経巻類を辛うじて奥の院に移動したのみで、他は全て灰燼と化しました。

六角義賢・義治は織田信長に敗れ、居城である観音寺城を去り、甲賀に居を構えますが、歴史の表舞台からは姿を消すことになります。

百済寺の300坊の石仏群や、石垣の多くは信長に寄り持ち出され、安土城に運ばれました。

お城の歴史としては百済城が山城の最後の形で、安土城は平城の最初の形であると言われているのだそうです。

こうして、百済寺は参道脇に広がる平坦な千枚田のような坊跡地、持ち出された石垣趾の段差、旧本堂跡地、五重塔礎石などから往時の隆盛をしのぶだけになります。

その後、百済寺は信長から近江を与えられた堀秀政に復興され、さらに江戸時代に本堂、仁王門、山門が再建され、現在に至ります。

境内の参拝を終えて、喜見院の庭園へ。建物と池周りはこじんまりとしていますが、庭園は斜面をうまく利用して、大きな公園風になっています。

喜見院庭園は江戸時代に造られましたが、建築物は焼失を繰り返し、現在のものは昭和の代に建築されたもので、建設時に庭も整備拡充され、一名、「天下遠望の名園」とも称するのだそうです。

比叡山は真正面に見えるようですが雲が覆っており姿をみることは出来ませんでした。

湖東の安土城址、観音寺城址、鯰江城址等が俯瞰できます。

御朱印をいただき、山門をくぐると陽はすっかり落ちて、永源時にはとても行けそうもありません。

それでも湖東三山はそれぞれが面白いお寺で楽しかったです。

できれば、桜の時期に百済寺に来てみようと・・・

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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