暑気あたりのせいか、いささか疲れて、赤れんが倉庫群に到達します。
市役所の周りにある倉庫群は舞鶴市政記念館、まいづる智恵蔵および赤れんが博物館(舞鶴観光ネット)以外は工事中で囲いに覆われて居て、近づくことはできません。
後程、回ったその他の倉庫群も、建物どころか敷地にも入ることは出来ずに、塀の外から確認するのみでした。
赤れんが博物館で、詳細な舞鶴市内の「赤煉瓦建造物マップ」をいただき、今度は眠くても、車で来て、全制覇!と思いましたが、受付の方に訊くと、ほとんどの建造物は、近づくことも出来ないのだそうです。
各倉庫はいまだ現役の倉庫として利用されているものが多く、また、各建造物の所属はばらばらで、観光一筋で一致団結して公開すると言う具合にはいかないようです。
現役で利用されているのですから、敦賀の赤れんが倉庫のように、耐震性の問題からアクセスを制約していると言うことはないみたい。
「赤れんが博物館」に到着します。
舞鶴文化事業団ホームページに赤れんが博物館の説明があります。
「舞鶴市には、明治34年(1901)の旧日本海軍舞鶴鎮守府の開庁に伴い、海軍が建設したものを中心に多くの建造物が現存し、風雪を経た赤れんがはエキゾチックな雰囲気をかもし出しています。
赤れんが博物館建物は明治36年(1903)に旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫として建設されたもので、本格的な鉄骨構造のれんが建築物としてはわが国に現存する最古級のものとされています。
舞鶴の個性の一つとなっている、れんがのもつ魅力を多くの方々に実感していただくことを目的として赤れんが博物館を開設するものです。」
博物館の中は個々の展示品は撮影禁止ですが、中の雰囲気を撮影することはかまわないということでした。これは煉瓦製造用のホフマン窯(※巻末註)の中にあたります。
赤れんが博物館の後に遊覧船に乗り、舞鶴湾の中を廻りましたが、赤れんが倉庫の話をまとめて記述することして船の話は後回しにします。
遊覧船を満喫した後に、市政記念館にあるカフェJAZZで昼飯の「海軍カレー」を・・・遊覧船から見た「イージス艦みょうこう」が見学できるというお話を聞きして、興味を惹かれ、海上自衛隊北吸桟橋に向います。
少し歩くと文部科学省所属の3棟の倉庫があります。倉庫脇に見える歩廊は土に埋もれていたのだそうですが、平成16年にボランティアの手で、土を除去して往時の姿を復活させたのだそうです。
文庫山学園(老人福祉センター)に登る道を上がって行くと、文科省所属の倉庫が展望できます。蔦のからまる壁もあり、雰囲気たっぷりです。
各倉庫の外見は大分くたびれている感じで、写真を撮っている時には、どれも現役倉庫であるとは気が付きませんでした。
舞鶴の赤れんが建造物の歴史は明治34年(1901年)日本海軍の「鎮守府」が置かれることにより始まります。
鎮守府は、所轄海軍区の防備、所属艦艇の統率・補給・出動準備、兵員の徴募・訓練、施政の運営・監督にを業務とし、いわば、日本海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関を指します。
当初は日本海域を東西に分割し、統括機関も2箇所に設営される予定でした。
まず、1876年に東方面の横浜に鎮守府が仮設され、1884年に、横須賀に移設され、横須賀鎮守府として正式に開庁します。
横須賀に対し、西方面の鎮守府は設営されないままに、1886年海軍条令により、日本の海域を5つの海軍区に分けることに変更され、1889年、横須賀以外に呉、佐世保に鎮守府が開庁されます。
1896年に、この他東京と舞鶴に鎮守府がおかれることが決定し、臨時海軍建築部がおかれて鎮守府の建設準備を進めることになります。
日露戦争を前にした明治34年(1901年)、舞鶴に鎮守府が開庁され、旗艦「三笠」をはじめとし、日露戦争における主要軍港としての役割をになったのです。
昼飯の時に、喉が渇いてカフェで水を何杯もお代わりして、ちょっとヤバいかなとおもいつつ、イージス艦「みょうこう」を目指して歩きます。
なんとなく気が遠くに行きそうな感じになり・・・ゆっくり、ゆっくり。
自衛隊桟橋に向う途中にある、海上自衛隊の倉庫群(被服倉庫)です。これは帰りに撮った写真ですが、一番手前の倉庫が大正10年竣工で、向こうの2棟が明治34年竣工になります。
明治時代の建造物は屋根の部分の段差や細工が施され、装飾的なところが特徴なのだそうです。
大正時代の倉庫は明治時代の倉庫に比較して、確かに装飾は少ないのですが、すっきりした感じがして、これも良いなと思います・・・
北吸あかれんが倉庫群は舞鶴鎮守府軍需品の保管倉庫として、明治33年に建設が着手され、大正10年(1921年)までに建設されました。
この自衛隊所属の3棟を除いて、全ての倉庫内に線路を引き込み、貨車による物資の運搬を可能にしていたのだそうです。
現存する赤れんが倉庫は12棟のうち3棟が前述の「赤れんが博物館」、「舞鶴市政記念館」および「まいづる智恵蔵」として利用されており、六号棟、七号倉庫の2棟が赤れんがパークの一部として整備工事中です。
先程の文部科学省の3つの倉庫、その近くにあった海上自衛隊倉庫、およびこれらの3つの海上自衛隊被服倉庫の7棟が現役倉庫として活躍しているのだそうです。
自衛隊所属では確かに公開はされることはないだろうなと、ただし、一方では桟橋で巡洋艦を公開しているのですから、倉庫周辺も公園にして開示してくれれば、と思います。
このほかに、自衛隊桟橋の奥にある、ユニバーサル造船㈱(旧日立造船㈱)舞鶴工場敷地内に旧舞鶴海軍工廠をはじめとした、23件のれんが建造物群があるのですが、公開されていないのだそうです。
舞鶴ネットに、旧海軍工廠を利用した日立造船舞鶴館があり、一週間前までに申し込むと第1、第3水曜日限定で見学可能と記載されていました。ユニバーサル造船と変わっても有効なのでしょうか?
また海上自衛隊桟橋の近くの丘の上に旧北吸浄水場第一、第二配水池があり、配水池上屋は大正15年竣工の鉄骨れんが造りになっているとのこと。
これも公開されていないということですが近くまで行けば、写真は撮れたのかもしれません。
いかんせん、ちょっとばかり、たどり着く元気がなく、諦めます。
それでも、帰りがけに、街中にある、れんが建造物をもとめつつ歩きましたが、めぼしいものはありませんでした。
くたびれ果てて、駅前通りまで来て、もうすぐ東舞鶴駅というところにギャラリーがあり、絵を見せていただきました。東山魁夷など森をテーマにした高級複製画がならび、ちょっと感激。
モネの紅葉を描いた絵(プリント)があり、おしゃれな額縁込で3,000円とのこと、思わず購入してしまいました。帰ってからタイトルを確認すると<クルーズの峡谷1889年>との記載がありました。
でも絵の裏に<ジヴェルニーの秋の野>と手書きがあり、どちらが正解なのか判りません。まあ絵がよければいいかと・・・
※註:ホフマン窯(舞鶴ネット)
れんが製造に使用されていた登り窯は窯内に熱を効率よく配し、薪材を燃料とするわりには高温にすることができました。けれども、一窯で焼けるれんがの量には限りがありました。
そこで登場するのがホフマン窯(ホフマン式輪窯)です。
登り窯を平地でもっと長くし、部分的に曲げて最後尾の房を最初の房と連結した形のものです。このようにすると、一周して来た火を消さずに際限なく焚き続けることが出来るという訳です。
この方式はドイツで開発されました。フルマンが開発した窯に、フリードリヒ・ホフマンが改良を加えて1858年特許を得た。
わが国へは銀座れんが街建設に際して、導入され、1951年にはホフマン窯は日本全国的に50基存在していました。
今日の日本では自動化された台車が窯の中を移動していく、重油を燃料としたトンネル窯にとって代られ、現存するホフマン窯は2基となり、それも稼働はしていません。
ホフマン窯は石炭を燃料とするために、登り窯の薪による焼成よりも高温を得られ、焼成温度は、1000~1090℃になる。
上記温度は今日のトンネル窯で生産が続けられている温度と変わりがなく、ホフマン窯で焼成されたれんがは現代の赤れんがと同じ、赤色から赤紫の色合いになります。(薪焼成の登り窯ではオレンジ色になる。)