あれほど咲き誇っていた弁天桜に出会って、少し膨らんだ「くま」の期待を裏切り、大野城の桜はすっかり花弁を散らしていました。
まず、大野城にアクセスしてビックリ。 見慣れた、城周りの様子が全く違う。
えらく立派な駐車場があります。なんなんだ、これは?車を停めて周囲を確認しました。
そう言えば・・・以前来たときに築城430年祭の準備中で新しい建物を建築中でした。
周辺も大工事中で、雑然としていたことを思い出します。
430年祭が2010年だったということなので、2009年以来、大野に来ていなかったのか、いや、街中の花垣には何回か来ていましたので、大野城の近くに行かなかったということなのですが・・・
そうか、この商工会議所の建物はあの時建設中のものだったかと思い出します。
広い駐車場がありますのでここに車を置いてもいいのかなと思いますが、道を挟んだスペースに土産物屋があって、そこも駐車スペースがありますので、帰りになにか買って帰ろうとそちらに車を移します。
学びの里「めいりん」と言う大きな建物もできています。これも見慣れぬ建物です。
記憶が定かではありませんが、武家屋敷の名残を残した、落ち着いた雰囲気があったような気がしますがだいぶ近代的な感じに変貌したような気がします。
お城に上る道の斜面に花壇で模様ができています。
今年左義長で勝山の活力を感じましたが、大野も街の歴史を活用した街づくりを粛々と進めているようです。
町側からの道の桜はすっかり散ってしまており、つい最近のニュースで見た、桜の花に雪が積もった景色はどこにいったの?という感じ。
天主閣へ向かう道を登って、裏の西側からの登り口との合流点に来ると、まだまだ盛りの桜が並んでいました。
帰りにこちらから降りることとして先を急ぎます。
上に上っても桜はほとんど終わりでしたが天守閣の近くにある紅シダレが盛りを迎えていました。
天主閣は入場料200円で入れるようになっています。考えてみると、今まで何回か大野城に来ていますが、お城の中に入ったことはありませんでした。
お城の中は大野城の歴史を説明する博物館になっています。
大野に関しては金森長近の築城後についてはとくに勉強していませんでした。
以前来た時にお城の裏の方に敦賀港と蝦夷地を結ぶ「大野丸」の模型が展示されていたこと、
三国を歩いた時に大野藩が全国展開していたという「大野屋」があったことなどから、活発な商業活動を行っていた、という印象を持ってはいました。
展示で土井利忠の改革について知ります。
土井利忠は幕末の1829年財政赤字に苦しむ大野藩第7代藩主に就任。藩政改革に大いなる力を発揮します。
利忠は財政破綻が切羽詰まってきた1842年、藩主と藩士が一体となって改革推進する決意を示した「更始の令」を発布し藩の気持ちをまとめあげます。
藩士の人材を大いに活用し、銅鉱山運営、地場産品頒布や金融業を営む「大野屋」の展開、蝦夷地開発への進出、そのための「大野丸」の建造などの活発な事業運営を進めます。
また、藩校「明倫館」を創設、朱子学を基本としながらも、適塾から人材を招へいし蘭学、医学など幅広い学問を学べる学問所に仕上げ、全国から人材が集まる場として発展させます。
緒方洪庵が1849年に大阪で始めた種痘に関し、大野では、早くも、2年後に種痘所を開設し、小児への強制実施をしていたのだそうです。
さらに、軍制の改革も実施し、砲術の採用から大砲の鋳造を実施するなど、弓槍から銃砲による西洋式軍隊への改善を図ります。
これまた諸藩の注目を浴び、各国から学びたい人間を集めることとなり、幕末の天下に特異に輝く藩として変貌します。
利忠は蝦夷地開発には挫折しますが、藩政改革を成功裏に成し遂げ、1862年、病気を理由に家督を三男利垣に譲ります。
1868年(明治元年)没、享年58歳でした。
大野城の足元にある柳廼社(やなぎのやしろ)は利忠を忍んで建立された神社なのだそうです。(以上、Wikipedia 「土井利忠」から引用させていただきました)
幕末に重きをなした福井の松平春嶽のみならず、奥越に光り輝く名君主がいたことに感銘を覚えます。
西側口から、名残りの桜を楽しみつつ下におります。
三国で食べた昼食の味が忘れられずに、いつももスーパーで大野産の「こしひかり」を買っているのですが、生産人名入りの「こしひかり」・・・楽しみにしています。
車に戻ると、どっと疲れがでて、一乗谷の夜桜はパスして帰ろうと帰途につきました。