1月5日、神田明神へお参りに行きます。
奥さんの仕事の関係で教えている学童たちの検定の合格祈願のお守りをもらいに、湯島天神にも行こうと。
結局、お茶の水駅から聖橋を渡ったところで、今まで行ったことのなかった湯島聖堂にもお参りしました。
その後に神田明神、湯島天神をお参りして、上野、池之端まで歩き、旧岩崎邸庭園を拝観、新年早々、充実の一日でした。
まずは神田明神について・・・
以前記載しましたが、神田明神は平将門を祀っているので、将門の霊を鎮めた、成田山とは相いれないということです。
将門公には申し訳ありませんが、自分の気に入っている神社仏閣にお参りするのは大目に見てくださいと、成田山に合わせてお参りさせていただきます。
神田明神公式サイトに三の宮 平将門公の記載があります。
ちなみに一の宮が大己貴命(だいこく様)、二の宮が少彦名命(えびす様)となります。
「まさかど様、除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。
平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。
明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。
東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。 」
丁度司馬遼太郎の『街道をゆく「本所深川散歩、神田界隈」』を読みかけています。
そのうちの「平将門と神霊」で神田明神の記載がありますが、成田山との確執(?)は出てきません。
将門は地方豪族間の争いの中で、国府との争いに引き込まれ、国府を倒すこととなってしまい、豪族同士の争いが、結果として朝敵とみなされることになります。
将門は、関八州を手中に収め、「新皇」として、関東に律令国家を造り上げようと計ります。
「将門は後に頼朝が律令制を廃し、別個の封建制を策定しようとしたような、変革の意思は持たず、また、そのように、歴史も熟していなかった。」
後に出現する武家の社会のさきがけでありえたはずなだったところが都のミニチュアを造ろうとしてしまったということだと・・・
将門は朝敵として討伐軍が送られますが、その前に、豪族の残党に打ち破られ、2年程度で将門王国は終わります。
短命の将門王国でしたが、関東においては京中心で、関東が軽んじられていた意識もあって、将門に対する評価は高く、将門を慕う人達も多かったのだそうです。
その将門を慕う気持ちの裏返しなのでしょうか、将門の無念さを象徴するように、関東各地に亡霊が暴れまわるようになるなど関東での影響を大きくして行きます。
実際にはその人気の高さがむしろ災いし、地震、台風などの自然災害を全て、将門の亡霊のせいにしてしまうという面があったのではないでしょうか?
「神田明神は当初、柴崎(芝崎とも、現在の大手町当たり)の村の鎮守様であったが、江戸城築城の際に、駿河台に移され、大阪夏の陣が終わり、天下の憂いが無くなると現在の湯島台に移された。」
江戸幕府が安定してきたため、城外に移設されたということなのでしょうか?
将門公と神田明神が何故関わるようになったかは、「街道をゆく」には記載されていません。
神田明神の起源については芝崎にあった伊勢神宮の御田(神田)を鎮めるために「神田の宮」として創建されたという記述があります。
なるほどと思いますが、神田については将門の首に対する「身体(からだ)」が訛って「かんだ」という記述もあり、定説ではないようです。(Wikipediaの「神田明神」と「平将門」の項)
芝崎の神田明神の近くに、京都で晒された首が飛び来たったという「将門の首塚」ができます。
14世紀初頭に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)、近くにあった神田明神に将門公を祀ったということが、神田明神と将門公の関係の始まりのようです。
将門は太田道灌、北条宇治綱等の武将達に篤く敬われ、また、徳川家康が関ヶ原の戦を前に、神田明神に参り、戦勝祈願をして、勝利します。
徳川家康は神田明神を深く信心し、続く代々の徳川幕府に庇護されて、、「江戸の総鎮守」と称されるほどになります。
また、そのお祭りは日本三大祭り(京都祇園祭、大阪天神祭と合わせて)と称せられるようになります。
「しかしながら、式内社(延喜式神名帳(927年))に記載がある神社)でないこと、徳川家の庇護が厚すぎたことへの反発、さらに言えば朝敵を祀っていたことが原因であるのか、明治になっての社格は府社にとどめられた。(現在は神社庁別表神社)」(街道を行く)
同時期に、朝敵である将門を摂社に移し、代わりにだいこく様(大己貴命、一の宮)、えびす様(少彦名命、二の宮)を祀ることになります。
しかしながら、将門の民衆の人気が根強く、昭和59年に三の宮として復権します。
歴史が絡むと、つい説明が長くなってしまいます・・・東京は拘わる歴史の範囲と、拘わる人物達の対象範囲が多いことから、織り込まれた歴史の襞も多く、ひも解くと、多くの史実がこぼれおちてくるような気がします。
敦賀で歴史に目覚めた「くま」が実家に帰って東京の「はいかい」を始めると大変なことになりそうです。
神田明神の隋神門をくぐると御神殿への太い行列がありますが、その前に、大黒様にお参りする行列が横切っています。
御神殿の列に並び、拝礼を待つ間、御神殿の中で大勢の人が、入れ替わりでお祓いを受けているのが見えます。
お参りが済んで、御神殿の中を拝ませてもらおうと入って行くと、お祓いの受付がありました。
個人のお祓いは5,000円〜とのこと、年齢的なお祓いは関係ありませんが、それぞれの健康と仕事が順調に進むようにと二人でお祓いを受けることにしました。
お祓いを受けた人は付属の博物館を無料で拝観できるということで、喜んで、博物館の階段を上ります。
博物館では神田祭の歴史についての詳細な展示がされており、勉強させてもらいました。
上に述べた日本三大祭りの一つであると同時に、江戸三大祭(山王祭、深川祭)の一つでもある神田祭・・・魅力のある響きでなんとか一度参加してみたいと思います。