自分は29歳の7月、もうすぐ30歳を超えようとしている時、縁あって結婚しました。
新婚生活は中目黒の文房具屋さんの2階の部屋を借りてスタート。
大学卒業後、石油会社に入社、横浜にあった製油所勤務となりました。会社の独身寮が神奈川県川崎の宮前平にあり、一年以上を独身寮で過ごしました。
そのうち住宅・都市整備公団の賃貸住宅、いわゆる公団住宅の単身用に当選、恵比寿に近い古いアパートに移り、一人暮らしを始めました。
当時公団の単身用に住んでいると結婚した時に、小世帯用に移れるという特典がありました。
中目黒のアパートは希望の団地の空きが出来るまでの繋ぎとして選んだもので、1年後には経堂の小世帯用、と言っても、1DKですが・・・に引っ越しました。
練馬に実家がありましたが、会社の至近の鶴見駅まで通うにはいささかきつくて・・・
というより、大学の4年間、親元を離れて暮らした気楽さから、親と距離を置きたかったという方が、正直の様な気がします・・・
広尾も六本木も近い、利便性の高い場所でしたが、飲みに行くというと、「おしゃれな場所」には足が向かずに、渋谷か恵比寿の赤提灯をハイカイしていました。
大して色気のある話もなく・・・まあ、少しはあった気もしますが、明確に記憶に残るようなこともないままという地味な生活を送っていました。
お互いの友人の結婚式で奥さんと知り合います。2次会、3次会と付き合ううちに最後に残った二人と言う感じ・・・それから時々飲みに行くようになり・・・
自分はそれまで、結婚する気は全くなく、社内預金は少し貯まれば、おろす、の繰り返しで数字が増えることはありませんでした。
少しは残っていた最後の社内預金全額を下そうとした時でした。
あまりのひどさに、あきれた、事務の女性、「お金を貸すから、これで今月しのいで、最低限の預金は残しておきなさい。」と諭されるます。
この女性、先輩の奥さんで、いつも気を遣っていただいて、逆らえず、仰せのままに有り難くお借りする、という情けないこともありました。
えーっと、結婚を機会に本籍地を父の本籍地である牧之原市静波から渋谷に移したと言う話をしようと思っていたのになんと余分なお恥ずかしい話を・・・
静波は、父の生まれた田舎になるわけですが、父の家系の家は残っておらず、自分がお付き合いしている親戚は、戦災で亡くなった、兄の母の実家にあたります。
死に別れ同士の再婚となった自分の母および自分は、兄の母の家系とは血のつながらない親戚筋になるわけです。
亡くなった義母の妹にあたるお婆ちゃん、兄の従兄の夫婦、その子供の世代で、自分と歳の近い人間達がいました。
幼いころは当然の様に、皆が歓待してくれるのに甘えて、田舎生活を満喫していましたし、状況が理解できてきた後も、あたかも自分の親戚の様に、遊びに行っていました。
大学の時の夏休みに一人で遊びに行って、10日間くらいを過ごしていた記憶があります。
お茶農家がメインのその家では自分が起きてくると、もう皆仕事や学校に行ってガランとしています。
今は亡くなった婆ちゃんに朝飯を食べさせてもらって、「行ってきまーす」と歩いて10分程度の海岸に・・・
昼になると食事に帰り、また夕方まで浜で遊ぶ・・・飽きもせずよくやったと思います。
母は「何の関係も無いのに申し訳ない」と、自分の知らないところで謝り続けていたようです。今回もその話が出ました。
母の言うことは判ります。自分にもそういう、建前論、というのか、自分の中の論理で自制してしまう面は多分にあります。
父は、皆に「おじさん」「おじさん」と持ち上げられて、家長のように振る舞っていましたので、自分の息子を歓迎するのは当然という態度でした。
考えてみると・・・亡くなった嫁さんの実家ですから、父にとってもあまり、血の繋がりが濃いというわけではないという気もします。
父にしてみると、自分は東京に一人で出て、苦労して生活してきたことから、田舎から出れないお前たちと違う、というちょっといやらしい自負もあったようです。
父ほど厚かましくはできないけど、 母の「気遣い」も彼らの素朴な好意に対して、むしろ、壁を造って拒む、「都会人の冷たさ」という感じもしました。
自分と同世代のやんちゃばかりしていた長男は、ぶっきらぼうな態度ながら、自分に親しみを覚えてくれていたようで、よく酒を飲んだ記憶があります。
無茶苦茶な飲み方をする奴で、家で飲んでると「外に行こう」と、近くの飲み屋まで出かけたり、焼津まで、酔っぱらってる状態で車で連れて行かれたこともありました。
ある時は、田んぼの中に突っ込んでひっくり返ってけがをして入院中に、自分が来るからと病院から抜け出してきて、会いに来たりしてくれたこともありました。
その時はさすがに飲まなかった様な気がします・・・
段々と疎遠になり、長女が生まれた時にお邪魔して以来、父の納骨に行っただけで、ご無沙汰していました。
兄の家族は親しく交流しているようでしたが、自分の心の底に母の気遣いと同質の気配りが生じてきて、足が向かなくなったというところもあるような気がします。
長男の子供たちも大きくなり、素朴に受け入れてくれるのか・・・と、そんな感じだったと思います。
長男が3年前に脳梗塞で倒れ、看護師だった奥さんの機転で奇跡的に大事に至らず、回復しました。
さすがに懲りて酒の飲み方が変わったかと思ったら、相変わらず、飲み続けていたようです。
昨年、再度倒れたことを電話で聞きました。
今回は蜘蛛膜下出血ということで、飲酒との因果関係はない、こうなると、長期戦を覚悟して、じっくり構えてリハビリを続けていくしかないとのこと。
一度見舞いに行って励ましたいと考えていましたが、「みんなのごるふ」で静岡遠征をやることになり、ついでと言っては申し訳ないけど、皆と別行動で静岡に向かい、顔を見にいこうと・・・
今年の新茶を送ってもらったお礼の電話をして、お見舞いしたいことを伝えました。
彼は退院してというより病院からは追い出されて、自宅からリハビリに通う生活をしているとのことでした。
たどり着いてみると肺に水が溜まり、近所の総合病院に入院した、風邪をこじらせたとのことでした。
今のところ口がきけない状態なので、自分の状況を家族にうまく伝えられないところがあるようでした。
自分が来ると聞いてボロボロ泣いていたようですが、病院に行って目を合わせると懸命にこちらを見て口を動かしていました。
おそらく、色々気を遣っているのだと思います。理解できないので、ただ、頷くしかありませんでした。
翌日、再度病院に行って、「頑張れよ、また来るからな」と肩に手をかけて別れの挨拶をすると、彼の顔がくしゃくしゃになり涙がこぼれました。
退院して、リハビリを再開できるように、祈るばかりです。