5月5日は地下鉄一日券を買って東京を歩いてみようと・・・
以前・・・自分の60歳の厄払いに深川不動に行ったときですから4年前ですか・・同じように一日券を購入して、築地、月島、門前仲町、清澄公園等を歩きました。
今回は長女が生まれる時にお参りした水天宮に、とりあえず30数年ぶりのお礼参りに向います。
奥さんは別途、お礼していると思いますが、自分がきちんとお礼参りしなかったから、未だに嫁に行かないのか・・・などと余分なこと言うと娘に怒られる・・・
水天宮を起点に周辺を歩くことにします。
当日歩いた経緯を上図に示しました。水天宮から歩き始めて、最後のIのブリジストン美術館で「あなたに見せたい絵があります」を鑑賞したものです。
随分歩いたつもりですが、全部で4.5Kmでした。
「水天宮前駅」で降りて上に上がると水天宮の門前は大勢の参拝客で賑わっていました。5月5日は例祭(創建記念日?)が執り行われており、多くの人が訪れているようでした。
安産祈願、子授けで親しまれている水天宮。水天宮公式サイトの説明をお借りします。
「もともと福岡県久留米の鎮守様として祀られてきましたが、江戸時代、第9代久留米藩主有馬頼徳の時、三田、赤羽根の藩上屋敷に分祀。
明治5(1871)年、現在の地に移り、大勢の参拝客で賑わってきました。
水天宮は天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)とともに、安徳天皇、建礼門院、二位の尼(時子)を祭神としています。
平清盛の孫にあたる安徳天皇は、源氏に追われて、京から西へと逃れますが、 ついに壇ノ浦の合戦で源氏の軍船に取り囲まれ、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に波間に身を躍らせます。
戦の後、建礼門院に仕えていた官女、按察使局、伊勢がひとり源氏方の追っ手から遁れ、九州の千歳川(筑後川)乃流れる、鷺野ヶ原にたどり着きます。
局も壇ノ浦で共に入水しようとしたのですが、二位の尼にとどめられ、生きてわれら平家一門の霊を慰めよとの命を受けてのことでした。(寂光院の建礼門院にも、同じ話がありました・・・「寂光院2011.09.19」
局はこの地に祠を建て、安徳天皇をはじめ平家一門の霊を祀る日々を送りました。
伊勢は後に剃髪して、里人に請われるままに加持祈祷など行っていました。
御霊験あらたかにして尊崇する人々が多くなり、尼御前と称えられて慕われ、社名を尼御前神社と呼ばれるに至りました。
水天宮は子供の守護神、安産の神様のみならず、古来、農業、漁業、航海者の間で信仰され、さらに病難、火災などの除災招福のご利益をもって聞こえるに至ります。
その後、久留米藩第二代藩主有馬忠頼公により、久留米市瀬下町に七千坪の敷地が寄進され、社殿が設けられ、水天宮本宮として今につづいています。
さらに、江戸、赤羽根 久留米藩有馬家屋敷に分祀され、青山を経て現在の地、日本橋蠣殻町へと移りました。
ご祭神である、安徳天皇は、御年わずか八歳で海中に沈まれましたが、その若さでの犠牲ゆえに万民を救うという尊いご神慮と称えられて大きな信仰を集めました。
安徳天皇を慈しみ育まれた建礼門院、ともに海中に沈まれた二位の尼もまた尊崇され、水天宮に祀られております。 」
似ている人が・・・と思ったらやはり会社の人が御夫婦で歩いていました。お子さんが居ない御夫婦で願をかけに来られていたのだと思います。
昼時を過ぎました。人形町で昼飯をと向かいます。もう20年も前になるでしょうか、水天宮の近所に同業の会社の事務所があり、一時期よく訪問していました。
公的機関からわが社を含む数社に発注された検討業務の幹事会社が同社であったため、定期的に、打合せに来ていたものです。
当時、行ったことのある周辺のお店自体は覚えているのですが、周りの位置関係があぶなくて、「芳味亭」を探しますが見つかりません。
親子丼の「玉ひで」は行列ができています。そうそう、ビーフカツの「キラク」(地図のBに相当)ならすぐわかりそう。「えっ、キラクが無くなって、ビルができている・・・」
なんのことはない、人形町の交差点に立つ方角が違っていたのであって、前の位置に昔ながらの感じでキラクはありました。
昔よく粕漬けのお土産を買って帰った魚久も覚えていた位置と正反対にあり、「店が移ったに違いない」と頑張りましたが、やはり思い違いなのでしょう。なにか色々と自信が崩壊して行く感じ・・・
幸いなことにキラクの店の前に行列はなく、店の中で少し、待たされましたが、間もなく座れます。
昔は親父さんが一人で背中を向けて、ひたすらあげている姿が印象的でした。その親父さんの姿はなく、カウンターの外の女性が店を仕切っているようでした。
女性がテキパキと注文を通します。調理している二人の職人さんフォローしきれないで、、「えっ、ポーク無かったんだっけ?早口で聞き取れないんだよなあ」と冗談口で話あっています。
それはそれで面白かったけど、口もきかずに、揚げ続けてた職人気質丸出しの親父さんの姿が懐かしい気もしました。
食事を終えて少し戻り気味になりますが、甘酒横丁※(地図のC)を通って浜町公園からスカイツリーを見てみようと歩きます。
※昔、尾張屋という甘酒屋があり、甘酒屋横丁と呼ばれたのが起源(「甘酒横丁」日清紡ホールディングス㈱)
甘酒横丁が明治座通りに名前を変えます。
道の真ん中に公園があり、弁慶像がみえを切っています。傍らに立っている看板の説明の丸写しになりますが・・・
「350年前、現在の人形町あたりに葺屋町と堺町という街があり、江戸三座といわれていた芝居小屋のうちの「市村座」と「中村座」の二座が歌舞伎を上演しており芝居街と呼ばれていた。
また、浄瑠璃による操り人形の芝居小屋も数軒あり、歌舞伎と合わせて庶民の人気を集めていたという。
ここで使われた人形の製作と、修理に当たった人形師達は、この周辺に住み人形細工と人形の販売をも業としていた。
これが、人形町の名のいわれとされており、ここ人形町界隈は、江戸歌舞伎発祥の地といえる。
この度、緑道の改修に当たって、入口の広場に歌舞伎十八番の内でも人気のある勧進帳の武蔵坊弁慶を設置し、往時をしのばんとするものである。」
とまあ、歌舞伎の弁慶さんということで、あまり弁慶さんご自身はこの地には関係なさそう・・・
明治座ではあの「早乙女太一」の公演がかかっていました。誰の事やら、全然知らなかったけど、奥さんによると今風の「梅沢富美男」だと・・・
と、それで終わって忘れているところでしたが彼女の西山茉希を人前で殴っただの、押し倒したなどのニュースが評判になって、ああ、あの・・・と思い出しました。
まあ、女性に暴力は働かない方がいい・・・特に人前では・・・と当たり前のコメントを・・・
浜町公園に到着。
総合体育館が併設されていて、子供たちがゲームしたり、ぼんやり日向ぼっこしたりしていて、近所の人達が気軽に憩う場所として活用されている感じがします。
スカイツリーは思ったほどではなく、ビルの谷間に垣間見える感じでした。往復の電車で、錦糸町付近で見たスカイツリーの方が大きかったです。
水上バスのほかに、モーターボートで川遊びをしている人たちもいました。
テレビでカヤックで隅田川の桜を楽しむ番組を見て、いいなと思ったのを思い出し、探したのですが、そのものズバリのものは見つかりませんでしたが下記のリンクが参照になります。
パナマ運河の様な「扇橋閘門」を通過する場面がおもしろかったのです・・・YouTubeでも沢山の動画がアップされているようです。
扇橋閘門について、東京都建設局に説明資料がありました。(扇橋閘門)
浜町公園を後にして、再び人形町を通って、茅場町に抜けて行きます。
そういえばもう15年も前に死んだYと、ときどき飲んでいた「あをき」・・・
夏でも厚めのフグ刺しを出してくれて、二人でシコシコ飲むのにはちょうどいい店でした。
手酌で飲めない奴で、自分のコップが空になると、咳払いして、こちらが注ぐのを催促するという、メンドクサイ奴でしたが・・・そんなこと思い出してしまうと、どうもウルウルしてしまいます・・・
何回かそれらしき道をたどりますが見つかりません。帰ってから調べると、確かに通り過ぎた場所に今でも存在するかのように記載があります・・・
谷崎潤一郎の生誕地の表示があります。祖父が経営していた谷崎活版所があったところということです。写真の谷崎の文字は表札で、谷崎さんがお住まいなのかもしれません。
茅場町に抜ける前に出光の「長谷川一夫スタンド」(地図のG)を前にして、思い出します。奥さんとも行ったことのある、割烹「たえ」。
自分と同じ苗字の一家がやっていて、娘さんのたえさんの名前を付けた家族的なお店でした。
まあ、当時で8,000円~という値段設定でしたから、頻繁に行くところではありませんでしたが、お客さん相手にはよく使っていましたし、一人でふいに行ってカウンターで飲んだりもしていました。
「あをき」で飲むことの多かったYとも一度行ったことがありました。
お店は確かにありましたが、今でもやっているのかどうか・・・ネットには掲載されていますが・・・会社の人に聞いてみようと、あきらめて茅場橋を渡ります。
たしか、橋のたもとのビルにベルギービールの店があったのですが、見当たりませんでした。
時間があったら行ってみようと思っていたブリジストン美術館(地図のI)、もう3時半近くになっていますがダメ元で歩こうと・・・
途中、道が不安になり、タクシーの運転手に聞いたのが敗因で、かなり大回りさせられてたどり着きます。展覧会は18時までとのことで、安心して入場。
ところが二人とも疲れ果てていて、途中、休み休みようやく鑑賞を終了。でも本当に好きな絵が多くて満足でした。
疲れ果てて、千葉駅から近いイタリア料理屋さんで食事をして帰りました。