花見川遡行

新型コロナ禍のあおりで、講習会、イベントが中止あるいは自粛で全く東京方面に行くことが無くなり、「はいかい」が主テーマの本ブログ、更新を怠ること甚だしい。

ワクチン接種が進み、自分も2回目が終了、世の中のコロナ騒動も収束に向かうものと期待、「行人舎ツア」と銘打って東京歩きを再開しようと計画立案を始めました。

移動は電車を原則とし、取りあえず、乗車時間の短い千葉周辺から始めて、徐々に脚を伸ばして東京へたどり着く形にしようと。

「千葉編」は、おさらいをかねて一度歩いたところも含んで「花見川遡行」「佐原街並み・香取神宮」「谷津干潟・船橋街並み」「宗吾霊堂・宗吾ロード」「中山法華経寺・荷風の散歩道」などが浮かんでいます。

東京編では小岩~金町(柴又、江戸川沿い)、亀戸~押上(旧梅屋敷、亀戸天神~スカイツリー)を手始めに考えています。

とりあえず。第1回目は「花見川遡行」と定め、当初、8月初めの再開を考えていたのですが、状況は悪化する一方で、カレンダー記載の日を徐々に後ろ送りにしてお盆期間に入ってきました。

自分の行動予定はGoogleカレンダーを通じてネットで奥さんと共有しています。後ろ送りになった予定日が奥さんの仕事のお盆休みの最終日になっていました。

京成検見川駅近く

長い雨期が丁度明けて、歩いてみたい、との希望あり、行人舎ツア約款にある催行最少人数は添乗員1人のみですので、当然要件を満たして決行に差し支えなしというところで、めでたく行人舎ツア「#1花見川遡行」決行となった次第。

ちなみに、はずかしながら最近になるまで「:シャープ」と「:ハッシュ」の違いを認識しておらず、キーボードの(ハッシュ)もシャープと思い込んでいました。なんでがないんだろうと。

おまけにもう一つの勘違いは、ナンバリングの#1,2,3・・の頭はシャープと思い込んできましたが、ハッシュが正しいのだと、パソコンを使い始めて40年以上になると思いますが、こんなことも知らなかったのかとあきれるばかりです。

ということで「行人舎ツア」のナンバリングは#(ハッシュ)1から始まります。

遅ればせながら下記が「行人舎ツア」の運用方針です。なんちって・・・

検見川神社

①Google Mapのルート探索で距離は10km程度。歩行時間2時間程度を目安。
②起点と終点は鉄道駅とし、ルートによっては起点に戻ることでも良しとする。
・・結果として、中断に終わった今回の経験に基づき補助手段としてバスの利用も考慮する。
③ルート選定に当たっては神社仏閣、教会、城跡、美術館、博物館、植物園、歴史的あるいはランドマーク的な建築などを極力網羅し、極力一筆書きで歩けるルートを検討する。

④終点の駅には飲み屋が豊富にあること。やむなくさみしき駅が終点の場合には途中駅の千葉、成田、あるいは四街道まで我慢する・・とまあ、これはコロナの状況がもっと良好になってからの話になりますが・・・

東京編が始まったときには下記の追加項目が加わる予定です。
①広重の「江戸名所百景」のロケハンを目的に加える。
②自分が歩いたことがない繁華街、降りたことのない電車の駅を目指す。

「花見川遡行」を思いたったのは、以前サイクリングで花島公園から花見川沿いに北上したことがあり、その時、この道を歩き通してみるのも面白いなと思ったことがキッカケでした。

さらに市民大学専門課程で印旛沼の治水の歴史の講義で花見川掘削の話が出てきて興味を持ちました。。

印旛沼は現在、千葉市青葉の森公園を水源とした鹿島川や四街道市の地下水を源流とした手繰川などが流れ込み、利根川に排水される形をとっています。

その起源は、2万年前まで遡り、地域の海面が著しく低下した際に、下総台地の侵食谷が形成されたことに始まる。

その後、縄文時代に「縄文海進」と呼ばれる海水面上昇があり、香取海(古鬼怒湾)と呼ばれた海となる。

奈良時代に香取海底の隆起とともに、鬼怒川(衣川・・現在は利根川に合流)から運搬された土砂が沼へ向って流れ込むなどして次第に出口がせき止められ、沼が形成された。

上図は公益財団印旛沼環境基金のWebサイトからお借りした千年前の印旛沼、香取海の想定図です。印旛沼はまだ香取湾と一体化していて、衣川(鬼怒川)が流れ込んでおり、利根川は江戸に向かって流れ込んでいます。

余談なのですが、延喜式神名帳において「神宮」と記載されているのは伊勢神宮の他には鹿島神宮、香取神宮のみとなっています。

古文書の勉強での聞き覚えですが、香取海の入り口の両側に香取、鹿島神宮が日出ずる東の守りの神として建立され、重要視されていて神宮だった・・・のだというのですが本図を見ると理解出来る気がします。

現在の両神宮の位置ではは湾の入り口という感覚には遠い気がして、ピンとこないところがありましたが。

秀吉の指示により江戸の地に入った徳川家康は、利根川の氾濫に荒れ果てた地を改善するために利根川の流れを変え香取海に抜けるようにする利根川東遷事業を進めます。

利根川東遷事業の結果、江戸の氾濫は緩和されましたが、今度は利根川に繋げられた印旛沼周辺の村々が利根川の水害により大きな被害を受けるようになります。

本来の川の流れは前出のように印旛沼から利根川に向かいますが、利根川の増水時には逆流し、利根川から印旛沼に奔流が流れ込むことになり、印旛沼の氾濫に至るのである。

花見川

印旛沼溢水対策として印旛沼の水を東京湾へ流す印旛沼疎水の掘割工事が計画され、それに付随し、沼の干拓による新田開発や、銚子から江戸湾への水運航路の開発などの目的も備えた多目的開発が開始された。

幕末期には押し寄せる外国の軍船に対して、江戸湾口を封鎖された場合に、那珂湊から江戸へと輸送する供給路を開拓するという対外危機への意識の高まりという要求も加わり、開発が継続された。

掘割工事はしかしながら難渋を極め、江戸時代の開発はことごとく失敗に終わる。

享保9年(1724年)、利根川の氾濫に引き起こされる印旛沼の水害に苦しんでいた平戸村(現在の八千代市平戸)名主の染谷源右衛門が新田開発と洪水被害防止の工事を八代将軍吉宗に願い出る。

当時幕府は民間の新田開発を推奨しており、申し出が認められ、工事は源右衛門達に発注され、工事が始まりますが、大きな負債を抱えて中断されます。経緯の詳細は不明のようです。

享保の工事が中断した後、さらに印旛沼の洪水は続いたため、10代将軍家治の代に、草深新田名主香取平左衛門、島田名主信田治郎兵衛が緻密で詳細な計画を記した目論見書を幕府に上申。

家治は老中田沼意次に工事を命じ、天明元年(1781年)の幕府による巡検を経て天明2年(1782年)幕府直営の大規模な工事が始まります。

しかしながら、天明3年(1783年)の浅間山大噴火による利根川河床の上昇にもたらされた洪水、天明6年(1786年)の豪雨による水害で工事が難航する。

その最中、家治が逝去、さらには田沼意次の失脚が続き。工程の3分の2まで進捗した工事は中断されることとなった。

浅間山噴火で河床の浅くなった利根川はその後も氾濫を繰り返しいていく。

一方、国内の産業が盛んになり物資の流通量が増えてきたこと、また諸外国の船が頻繁に日本に訪れ、各々が開国を迫る状況がでてきたことなどから、物流上および国防上の双方の観点から内陸運河開設の要求が強くなった。

天保14年(1843年)、老中水野忠邦は天保の改革の一環として、上記運河開設目的も含めた開発事業を開始する。

検見川区役所

改革後半、勘定奉行鳥居耀蔵が責任者として任命され、沼津藩、庄内藩、鳥取藩、秋月藩、上総貝淵藩の5藩に御手伝普請が命じられ、花見川堀割工事が行われることとなった。

花見川上流部は勾配がほとんど無く、また、花見川下流の天戸地域、花島観音下(花見川区花島町)の渓谷の地質は、「ケトウ」(化灯、化土)というアシ(葦)やカヤ(茅)の根、又は木根の繊維からなる腐食土が堆積した軟弱泥のため、深く掘削することが出来ず、工事が難航する。

江戸時代の掘割工事が天災、飢饉、体制の変化など種々の要因による工事中断があったが、このケトウの軟泥層における難工事が最大の障害要因であった。

江戸時代の掘割工事がことごとく失敗に終わり、花見川開通に至るには難工事部分の掘削技術、大和田機場の設置による揚水機構などのの技術開発が進む昭和の代まで待つ必要があった。

昭和21年、戦後の食料増産等を目的に印旛沼の干拓、かんがい排水事業が開始。

さらには京葉工業地帯への工業用水供給の需要が高まったことから、印旛沼開発事業として開発が継続され、近代的な工法と大和田機場への大型機械の導入により、江戸時代の難問を克服、昭和43年に完成した。

現在、印旛沼の洪水時には、印旛水門を閉鎖、印旛機場を運転して、溢水を利根川に排水、それでも印旛沼の水位が下がらない場合は、最後の砦である大和田機場(電動モーターポンプ2台+ガスタービンポンプ4台)を運転して、洪水を花見川を通じて東京湾に排水する事になっている。

とまあ、花見川の歴史に興味を持ちながら、筆が進まず、長くの中断をしてしまいました。「花見川遡行」に話を戻します。

ルート検討したのですが、東京湾に流れ込む河口に当たる部分は、埋立地で、歩くにはいささか面白くなさそう。

花見川遡行の出発点としては国道14号の北側にあたる検見川神社にしようと決めます。

検見川神社は稲毛浅間神社と同様国道14号線上にあり、以前は海岸線に近いところに立地しています。311の際に、津波が浸食した跡を見ていくと、浸水線上に神社が点在していたと言う話がありました。

神社は震災時の避難場所として利用され、その位置は古よりそこに在ったのではなく、過去の被災経験からからより安全な場所に移設されてきた、ということがあるらしい。

津波と神社について調べてみると、水と災害に関わるとされる素盞嗚尊 (スサノオノミコト)を主祭神あるいは主祭神は別であるが合祀されている神社、および八幡神社が災害を免れたことが顕著であったという論文がありました。

検見川神社の祭神には素盞嗚尊がおられて話が合うのかも知れません。 

貞観地震の過去のデータを設計にどう反映するかで、東北電力と東京電力と電力会社としての対応が分かれたようですが、神社の立つ位置は忠実に震災の歴史を綴っているといえるのでしょう。

と、悠長に書き連ねてきて本ブログは中断していたのですが、前述したように、#1行人舎ツアはサイクリング経験の出発地点である花見川公園まで歩いてきて、添乗員隊長不良でツア続行不能となったのです。

大和田機場までの全行程を考慮すると花見川公園はほぼ中間地点で悔しい限りですが、これ以上歩けないギリギリの状態で、バスで幕張まで移動してJRで帰宅しました。

という体たらくで、#1行人舎ツアーを中途半端に終わらせることになりました。バスの中で外を見ると光過多の写真のように景色がしらけて見えて、光彩が開きっぱなしのかなりやばい状態に陥っていたと考えられ、えらく体力に自信がなくなる結果となりました。

土木ウォッチング

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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