佐倉歩きⅠ&Ⅱ

娘が孫を連れて遊びにきました。1月末生まれの次男坊が1歳を迎えて育休が終わり、そろそろ勤務が始まる前の息抜きというところなのでしょう。

4月の声をきかないうちに既にサクラが満開を過ぎようとしていた3月28日でした。

高崎川のサクラ(3月28日)

教育関連の仕事で、期末から新学期への端境期で少し余裕のある奥さんと佐倉市内を歩こうと計画をしていたところで、それならばと皆で出かけることになります。

1人では何回か佐倉市内を歩いており、いつか案内してよと奥さんに言われていて、コースは考えていました。孫も一緒となると、少々はしょって簡易版で行こうかと・・・

旧堀田邸入り口 (3月28日)

あいにくと天気が崩れそう、それでも午前中は持ちそうなので、早めにでて雨の降る前に帰ろうと、さらなる短縮版を考えますが、まあ行けるところまで歩こうと。

JR佐倉駅の観光案内所で地図をもらいながら、旧堀田邸への道を尋ねると、南側の庭側から登って行く道もあるけれど、北側の「ゆうゆうの里」を抜けて行くのがサクラ並木を見ながらとなり、今の時期のお勧めですと。

旧堀田邸 (3月28日)

お勧めのルートを楽しみながら、 旧堀田邸 にたどり着きますが、敷地に入った途端に早めの雨がかなりの量で落ち始めます。テレビドラマ「仁」の撮影場所にも使われたという 旧堀田邸内で庭園のサクラを眺めて時間を過ごしました。

雨が小降りになり、出発しますが、歩き出して間もなく再度雨が落ち始め、あきらめて「幸楽苑」でランチ。

旧堀田邸 (3月28日)

もうあきらめようと言うことになりましたが、幸楽苑を出ると、雲は厚いままながら、雨は上がっており、せめて武家屋敷までと、歩きました。

武家屋敷はコスプレの撮影会があったようで、多くの新撰組(?)風のお侍に扮した女の子達がうろうろしていました。

旧堀田邸庭園 (3月28日)

3月20日~28日に「佐倉・時代まつり ~和装と桜 賑わいのとき~」と言うイベントが開催されており、まつり自体はコロナで中止になったものの、貸衣装による撮影会などは実行されていたということのようでした。

・・・という3月の佐倉歩きそのⅠがあったのですが、5月の連休に入って、奥さんが前回の続きを歩いてみたいということで、そのⅡを敢行したというお話です。

武家屋敷のコスプレ嬢達 (3月28日)

そのⅠではJR佐倉を起点としましたが、そのⅡは京成佐倉駅を出発して、市内を抜けてJR佐倉駅まで歩きます。四街道駅からバスで臼井まで出て、京成に乗り換え佐倉に向かいました。

※図の右下にある➕をクリックすると若干地図が大きくなります。

京成側の観光案内所で再度マップをもらい、順天堂記念館、松林寺、甚大寺堀田家墓地、市立美術館、麻賀多神社、佐倉城址公園、歴博と歩き、時間があれば歴博の展示を見てJP佐倉駅に抜けるコースを考えました。(上図参照)

佐倉高校正門

京成佐倉から順天堂記念館に歩く途中に県立佐倉高校があります。校内に立ち入りが許されているようで、好ましき建物(記念館)、記念樹クスノキ、楷の樹(カイノキ)などがあり、さらに地域交流施設 「サクラ・カルチュレール・セントラム」がありました。

碌山文庫資料など歴史的資料の展示館になっていますが、開館が13時(土日のみ)とのことで1時間程待たねばならず、次回以降に期待することし見学は断念しました。

佐倉高校記念館

佐倉高校は1792年(寛政4年)、佐倉藩の藩校「佐倉藩学問所」として創設。

呼称は温故堂、成徳書院、成徳館+開智館(博文堂)、佐倉縣立成徳館など変遷を経て1948年千葉県立佐倉高等学校(その後佐倉第1高等学校を経て最終的に再度1961年県立佐倉高校へ)となる。

地域交流施設 「サクラ・カルチュレール・セントラム」

初代校舎は南海ビルディング(高島屋大阪店)、浅草松屋(浅草駅)などを手がけた久野節(くの みさお)の作品で1910年(明治43年)落成、現在は記念館として残り、国の登録有形文化財となっています。 当時久野節は千葉県の技師であったのだそうです。

残念ながら記念館は事務所として利用されていて、一般公開はされておらず、内部の見学はできないとのことでした。

佐倉高校クスノキ

幕末の人材育成のための藩校ということで、以前、福井県大野で藩政改革に尽力した名君土井利忠が人材登用と教育改革のための藩校明倫館を創立したという話を思い出します。

大野藩は佐倉藩の始祖土井利勝の四男であり老中を務めた土井利房が藩主となり、幕末まで土井家が治めた土地であり、佐倉とつながりがなくはない・・・

クワの実

佐倉藩のお勉強を・・・佐倉を含む印旛地域は遠く、室町時代には下総千葉氏の支配下にあり、本拠は水利の便のよい場所として今の酒々井に本佐倉城を築いていた。

秀吉の小田原征伐時、千葉氏は北条方につき、1590年(天正8年)敗戦とともに没落。印旛地域は同年,、関東入りし江戸を拠点と定めた家康の支配下となるが、佐倉藩として歴史が明確となるのは1610年(慶長15年)土井利勝が鹿島台に佐倉城を築城後となる。

コマツヨイグサ

土井利勝は7歳の頃より傅役(もりやく)として秀忠に仕えた。関ヶ原では真田幸正に煩わされて天下分け目の大戦に遅参した秀忠と行動を共にしていたが、関ヶ原後には逆に加増され、家康には認められていた人物だったようです。

1605年(慶長10年)秀忠が征夷大将軍に任ぜられると同時に、利勝も従五位下となり、大炊頭に任官する。

トベラ

以後、秀忠の側近としての地位を固め、1610年(慶長15年)1月、下総国佐倉3万2,000石に加増移封。家康の命により12月に秀忠付の老中に任じられる。

1623年(元和9年)秀忠は将軍職を家光に譲る。通常、将軍交代の際には側近も変わるが、利勝は青山忠俊、酒井忠世と共に家光を助け、幕政に辣腕を振るい、1625年(寛永2年)14万2,000石に加増される。

キリ

1633年(寛永10年)土井利勝は下総国古河16万2000石に移封、佐倉藩はその後何回かの藩主の入れ替えを経る。

1642年(寛永19年)信濃国松本藩から老中堀田正盛が11万石で佐倉入りし、これが佐倉藩前期堀田氏の治世となる。

佐倉順天堂記念館

しかしながら、正盛は1651年(慶安4年)徳川家光の逝去に対して殉死。子の堀田正信が継ぐが、1660年(万治3年)、幕政に不満を抱き、佐倉に無断帰城したため、改易除封され、「前期堀田氏」の終焉を迎える。

領主堀田家の不幸は佐倉(木内)惣五郎の祟りと言われたとされるが、惣五郎の事件そのものが事実として確認できる事項は少ないのだそうです。

佐倉順天堂記念館

その後藩主の交代を繰り返すが、1746年(延享3年)出羽国山形藩から老中堀田正亮(まさすけ;正信の弟である正俊の孫)が藩主となる。 正亮は加増され11万石となるが、うち4万石は山形にあったのだそうです。

その後、幕末に至るまで堀田家の支配が定着、佐倉藩の歴史においては、正亮以後の堀田氏を「後期堀田氏」と称する。

佐倉順天堂記念館

堀田正亮は、前期堀田氏の改易と結びつける伝承が生じていた佐倉惣五郎の慰霊を行い、以後の藩主もそれを継承する。このことにより「惣五郎伝説」を堀田家が公認した形になり、佐倉惣五郎義民伝説が定着したとのだと。「惣五郎伝説」の成り立ち、面白い・・・

と言うことで、幕末の佐倉藩と蘭学の発展の話になります。

佐倉順天堂記念館

佐倉藩五代藩主堀田正睦(まさよし)は蘭医学を積極的に取り入れ、1836年(天保7年)に佐倉高校の前身「佐倉藩学問所・成徳書院」に漢方、蘭方の二科を備えた医学局を設けます。

この時点では漢方医と蘭方医は対立関係にあり、設立当初はまだ漢方中心の医学教育が藩校で進められていたという。

佐倉順天堂記念館 医療費表

一方、長崎で蘭医学を学んだ佐藤泰然は江戸に於いて1938年(天保9年)日本橋薬研堀に蘭医学塾「和田塾」を開いた(和田は母の姓)。

翌年(天保10年)幕府による蘭学者弾圧事件「蛮社の獄」があり、泰然と親交のあった渡辺崋山、高野長英らが幕府の政策を批判したとして逮捕、処罰される。彼らと交流のあった泰然も幕府から要注意人物とされ、監視対象となる。

佐倉順天堂記念館 門人出身者表

1943年(天保14年)、親交のあった佐倉藩士渡辺弥一兵衛の働きかけがあったものと考えられているが、 泰然は正睦 に招かれ、佐倉の地に移り住み、病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設、成徳書院での講義も行うようになる。

泰然は、高度な外科手術を多く成功させたことで知られ、佐倉順天堂は、卵巣水腫開腹術、割腹出胎術、日本初の膀胱穿刺手術、乳癌手術、種痘など蘭学の先進医療を行なった。

幕末に設立された若狭・越前諸藩の藩校(府中は武生に相当)

また、日本の医学界を担う豊富な人材を輩出し、大阪の緒方洪庵の適塾(1838年~1868年)とならぶ有名蘭学塾となった。

泰然の後を継いだ、養子の佐藤尚中は自らの長崎留学により、ポンペによる最新医学技術、教育法を学び、東大医学部の前身である東京医学校の設立、東京の順天堂の設立など、日本の医学界教育に大きな足跡を残すことになる。

三谷家住宅(明治17年)

前出の写真にあるように、順天堂記念館の壁に順天堂門人達の出身地分布図が壁に貼られていて、日本全国のあまねく各県に1人ないし2人の人数が記されていて、日本中にその出身地が広まっていることがわかります。

幾つかの地域で5人、7人と言うところもありますが、驚くべきことはお膝元の下総(千葉、茨城)が12名と多いのは当然ですが、越前(福井)が下総を超える16名と突出した数値となっていることです。

松林寺

幕末期に入ると、日本全国の多くの各藩は財政危機に瀕し、藩政改革をせまられて、様々な対策をとるが、佐倉藩が藩校を設立したように各藩で藩校を設立して、人材を開発することが進められた。

福井県内の諸藩も藩校を設置し、蘭学を積極的に取り入れることが行われた。相当する若狭、越前の諸藩の藩校のリストが前出の表である。(『福井県史』通史編4 近世二

安城山甚大寺

表中、福井藩の正義堂は漢学の学校であり、間もなく閉鎖され、1855年(安政2年)16代藩主松平慶永(春嶽)により橋本左内を抜擢した「明道館」(後、明新館、現在の県立藤島高校)が設立される。

大野藩は前述したように、1682年(天和2年)佐倉藩の祖である土井利勝の四男土井利房が藩主となり、以降幕末まで土井家が治めた土地になります。

佐倉新町おはやし館

大野藩においては幕末の財政危機の状況で、藩政改革を進めた第7代土井利忠が登場する。利忠は若い藩士を抜擢して大野藩の地場産品を扱う藩直営商店「大野屋」の全国展開、様式軍隊の創設、蝦夷地開拓などの他、表にある朱子学の明倫館、さらには蘭学の洋学館を創設し人材開発にあたった。

このよう若狭、越前の藩政改革の機運が蘭学を横糸とした人材交流を活発化させたということが順天堂の門をくぐった人間が多いということに繋がるのでしょう。

佐倉市立美術館

さらに、福井藩の町医笠原良策の天然痘との戦いが藩を動かし全国的に見てもかなり早い時期に種痘の体制を確立したということが知られている。

笠原は種痘に成功した佐賀から痘苗を入手し、京都における種痘所の開設に助力、さらに福井藩に 痘苗 をもたらして種痘を実施し、福井藩一つにとどまらず、大野藩などの福井の各藩から加賀藩にいたるまで周辺の藩に広げていったのである。

麻賀多神社福禄寿

笠原の業績がさらに蘭学への意識の高まりをもたらし、各藩が著名な順天堂の医学教育を認めて、人材交流が盛んになったということもあったのではないかと。

と、いささか、自分の経験値の中の佐倉と福井を無理矢理結びつけるような話に終始してしまいました。

佐倉城址公園

順天堂記念館から浄土宗玉宝山松林寺へ。松林寺は、土井利勝が1610年(慶長15年)に土井家の菩提寺として建立。本堂は、土井利勝が春日局に譲り受けた「聖観音像」を安置する為に建てた観音堂である。

境内には、土井利勝の両親と妻の墓がある(今回確認しませんでした)。本堂は千葉県の有形文化財。また、大佐倉の陣屋に徳川家康の五男、武田信吉を祀った毘沙門像が松林寺に奉納されている。

センダンの花芽

次は天台宗安城山甚大寺。甚大寺は延暦寺の末寺で建立は1615年(慶長20、元和元年)。堀田家の菩提寺で堀田正俊、正睦、正倫の墓があり、佐倉市の重要文化財に指定されている。

昼飯は以前行ったことのある麻賀多神社の隣の房州屋さんでと考えていましたが、甚大寺を出ると既に1時過ぎ、先にランチを済まそうと近くの川瀬屋さんに入ります。ここも老舗の雰囲気が・・・

歴博レストラン前のウサギ

穴子天重蕎麦では量が多すぎるなと穴子天蕎麦を注文します。

穴子天と穴子天重の違いはご飯の有無だけと考えていましたが、ふと気がつきます。天つゆがかかっているか否かは自分にとって大きな問題で、全部食べられなくても天重にしたほうが美味しそうだったなと意地汚い後悔を。

姥が池 キバナショウブ

佐倉新町おはやし館には麻賀多神社のお祭りの時に、各町内が繰り出す山車に乗る山車人形が入り口に展示されています。通常は2体展示されているのだそうですが、一体が修理中ということで展示は一体だけでした。

昨年はお祭りは中止になりましたが、今年はどうなるのだろう、開催されるなら、カメラ担いでお詣りに来ようと思います。

帰路の武家屋敷前

市立美術館は素通り、佐倉城址を抜けて、歴博へ向かいますが、歴博の展示を見る元気はなくレストランでソフトクリームを食べて、JR佐倉に歩いて、帰宅しました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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