石道寺、鶏足寺1126

登山道を降りてくると石道寺と鶏足寺の中間にでてきます。

前回は天気が悪く、時間もなかったので石道寺の紅葉はパスしましたが、久しぶりに、あのたおやかで艶めかしい十一面観音像にお会いしたくて石道寺に向います。

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己高山下山道

多くの観光客が鶏足寺と石道寺を行き来しています。

そう言えば、己高山六地蔵で会った金沢の御夫婦の奥さんは十一面観音を巡るのが好きなので、降りた後に石道寺に寄りたいと言う話をされていました。

石道寺十一面観音像
石道寺十一面観音像 湖北いいことホクホク

石道寺でいただいたリーフレットによると石道寺の縁起は以下の通りです。

旧石道寺は726年、延法上人開基で、のちに行基が仏像を納めたが、焼失した。後に、最澄が仏像を納めて己高山石道寺と名付け、比叡山の別山とした。

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石道寺

その後国家鎮護の祈願所として栄えたが、徐々に寺運衰えて廃絶寸前となったが、京都護国寺の源照上人により1354年に再興された。ここに天台宗を廃し、真言宗に改められます。

戦国、徳川の代になっても、時の治世者の信仰を集めたが、明治22年に仁王門焼失、29年には山津波のために庫裡が流失するなどして無住の寺となった。

旧石道寺は現在より1kmほど東の三谷川に沿った山間にあったものを大正三年に旧石道寺の本堂(明治2年再建)と厨子と共に移築したもの。

同寺は現在、真言宗豊山派に属し、近江十一番、伊香西国三十三番の札所として大衆の信仰を集めている。

旧石道寺跡には跡地を示す碑と苔むす幾つかの墓石が、またその北の高尾山の中腹には石道寺の前にある神前神社の前身である高尾寺跡地があり、千年の樹齢を持つ神樹の杉があるのだそうです。

今回は逃しましたが、再度拝観に来た時には是非、跡地までお参りしてみようと思います。

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十一面観音様は平安中期の作と伝えられ、欅一木彫刻で極彩色、像高173.2cm。

その眉目流麗な御尊顔は、かたく結ばれた唇にほのかにのこる紅の色と相和して、ひときわ衆生済度の慈愛にあふれ、拝する人の心をいつまでも和やかに温めてくれます。

・・・自分もこの穏やかな観音様の暖かさとその紅のせいか不思議な艶めかしさに魅かれていて、上のリーフレット、いい表現だなと嬉しくなります。さらに説明は続きます。

腰をわずかにひねるかの様にして、右足の親指をあけられたお姿はまことに印象的で奈良総国分尼寺法華寺門跡や小浜の鳳聚山羽賀寺十一面観音と共に数少ない平安期の造形美を現しています。

十一面観音にゆっくりお参りして、さあ鶏足寺に向います。

鶏足寺については、己高山の頂上付近に鶏足寺跡があり、この地の飯福寺跡を鶏足寺跡と称しており、なかなか理解しにくい・・・

鶏足寺
鶏足寺

2009年に高月の「観音の里」のお祭りで歩いた時に己高山の寺群の存在を知ったのですが、その時の記事を編集して再掲します。(「観音の里」(2009.8.9))

Wikipediaおよび滋賀大の調査報告を参考にしたものです。

「木之本町の東方に位置する己高山(「こたかみやま」、あるいは「こだかみやま」)の山頂付近および西麓には、古代から中世にかけて多くの寺院があり、天台系山岳仏教の聖地であった。

鶏足寺
鶏足寺

奈良・興福寺に属する寺院を書き上げた『興福寺官務牒疏』という資料(1441年)には、己高山の五箇寺として観音寺、法華寺、石道寺、高尾寺、安楽寺の名がある。

このうち中心的寺院が観音寺だったようで、観音寺の別院として鶏足寺、飯福寺、円満寺が挙げられている。

これらの寺院は近代以降すべて山麓に下り、または廃絶している。

鶏足寺
鶏足寺

1407年と奥書のある『己高山縁起』によれば、近江国の鬼門(北東)に位置する己高山寺院群は奈良時代に行基および泰澄によって開かれたという。

己高山の中心寺院であった観音寺の別院、鶏足寺は伝承によれば、735年、行基によって開基されたものである。

いったん荒廃したものを799年に最澄が再興。1269年、下野国・薬師寺の慈猛が、それまで天台・真言宗、兼帯であったのを真言宗豊山派に改宗した。

鶏足寺
鶏足寺

1933年(昭和8年)焼失し、廃寺となった。

己高山山麓の古橋地区の輿志漏神社(よしろじんじゃ)境内に薬師堂、大日堂のほか、己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)と称する2棟の収蔵庫が建っており、鶏足寺や関連寺院に伝わった仏像などが収蔵されている。

現在山麓の古橋地区から徒歩15分ほどの山中の旧飯福寺跡が鶏足寺跡とされ、秋の紅葉の名所として知られている。」

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鶏足寺

上記の説明によると以下のようなことかと・・・

己高山の頂上付近にある、鶏足寺というのは寺域から言うと、己高山の山頂域全体を占めていた観音寺の寺域の中の別院であった。

観音寺全体は焼失などを繰り返し、埋もれた状態となったものの、観音寺域のうち、鶏足寺が最近年まで残っていたために、唯一跡地が明確となっていると言うことではないでしょうか。

鶏足寺
鶏足寺

五箇寺のその他の法華寺、石道寺、高尾寺、安楽寺が周辺の山麓や隣接する山に建立され、湖北周辺の天台宗仏教の中心になっていったということなのかと。

飯福寺に関しては、立て看板が立っており、下記の説明があります。

「飯福寺は奈良時代の行基の開基とされており、一時南都興福寺の末寺となる。

鶏足寺
鶏足寺

十五世紀に法印実盛上人により隆盛となり、浅井氏、京極氏の厚い庇護を受けた。

江戸時代においても寺領を与えられ、勢力を保ったが明治時代の廃仏毀釈により寺院の規模を縮小され廃れた。

その後地元民の努力により整備され現在の姿となっている。」

鶏足寺
鶏足寺

飯福寺跡が何故「鶏足寺」なの?ということの説明は見つかりませんでした。

近年に焼失した鶏足寺の名前を、同じ観音寺の別院であった山麓の飯福寺跡に冠したということなのでしょうか?

ネットでの観光案内を見ると飯福寺は鶏足寺の別院との記載があります。

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鶏足寺

強引に推測してしまうと、観音寺跡地は鶏足寺の跡しか確認できないことから、その史実に関わりなく、観音寺群を代表する名前として鶏足寺が使用されているのではないか?

その鶏足寺(=観音寺)の別院としての飯福寺跡地を広い意味で鶏足寺と称したと・・・

と勝手なことを考えつつ、なかなかいい写真が取れないまま陽が落ちて行きます。

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鶏足寺

前回は紅葉の盛りを過ぎた感じだった上に、天候不良であまり印象が良くなかったのですが今回は天気はいいのですが、たどり着くのがちょっと遅過ぎて、陽光に恵まれないと言う感じになりました。

いつか山登りとセットでなく、朝からお参りしてみようと思います。

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鶏足寺

空き地に駐車した車が迷惑をかけたのではと少々心配しながら歩いていましたが、自分の車の横で、テントを用意して食事の支度をしている人達がいました。

明日の朝に山に登るのだそうです。どうどうと車を停めて良かったのか・・・と、少々安堵して敦賀に帰りました。

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鶏足寺

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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