11月23日、今日は二の酉。久しぶりに鷲神社にお詣りに行きがてら、吉原で天丼でも食べようと。
午前中はクラブツーリスム主催の「江戸城三十六見附を歩く(浅草門~筋違門)」に参加するため、終了後、鷲神社に向かうことにします。
奥さんは「山手線一周」を完歩し、次のターゲットとして、「江戸城三十六見附を歩く」に挑戦ということで、「くま」も第1回目に参加します。
この企画は若いガイドさんの集まりである、5人羽織さんのオファーが具体化したそうで、今回のガイドも担当してくれます。
人気が高いようでガイドさん、二人で、2組に分かれましたので、総勢40人~50人いたのでしょうか?
5人羽織さんが作成した、三十六見附の地図が配られます。
江戸城の見附は、お城の内堀、外堀に設けられた城門で、番所の役割を担っており、正方形の石垣などに囲まれた枡のよう形状をしていたのだそうです。
その4辺のうち、2辺に各々入り口、出口の門が設置されているのですが、地図にはその四角形の向きも反映されているとのことでした。
その後、『江戸切絵図で歩く広重の大江戸名所百景散歩』という本をアマゾンしたのですが、その古絵図には確かに見附が枡形に描かれており、入り口と出口の方向が切り欠きで明記されています。
広重の「名所百景」を購入するきっかけは、最近フェースブックで各国の美術館のフェースブックページにいいね!をして、ニュースフィードをフォローしてます。
その中に、ボストンのThe Clarkが紹介していた、歌川広重 ”請地(うけじ)秋葉境内” 1857 「名所江戸百景」92番をシェアしました。
外国の美術館に、日本画を教えてもらうのは情けないことかもしれないけど、知らないことは素直にお勉強を、と言う心境・・・色々な美術館の所蔵の絵を紹介してもらうのが楽しくて、はまっています。
また、テレビ番組の「Youは何しに日本へ」で、オーストリアの女性の教師が、広重の「東海道五十三次」を持って、京都三条から絵の景色を追っていく話がありました。
家庭持ちの女性なんだけど、五十三次を辿ることが夢で、4週間の休みを取って、一人で歩きにきた・・・
その女性のゆったりと、焦らずに、でも、広重の描いた位置を丁寧に辿っていく様子が、謙虚で誠実な人柄が現れていて、いいなと思いました。
だからと言って、結びつかないのですが、とりあえず、おれは江戸百名所をやってみようと、いうことで・・・
がむしゃらに、網羅するつもりもないので、折に触れ、思い出したように、チェックしていくようにしたいと思っています。
当時、多数の見付が配置されていて、設置箇所は三十六箇所どころではなかったようですが、語呂がいいとか、数字的にキリがいいから等で三十六に絞られた様で、その経緯は明確ではないようです。
恥ずかしながら東京生まれ、と言っても、東京の地理に明るくなくて、外堀、内堀、隅田川、神田川・・・と、なじみの言葉がでてきても、概略の場所は判りますが、地図として浮かんできません。
東京の生活では山手線の恵比寿と池袋駅間を結ぶ線から西側がテリトリーで、高校がぎりぎりの山手線内、大学は東京を離れていましたから、あまり都心とは関わりの無い人間ではありました。
回向院は明暦3年(1657年)の大火で、逃げ場を失った多くの人々のうち、10万人が亡くなり、宗派、貴賎、人獣を問わずに回向する「諸宗山無縁寺回向院」として家綱により開基された。
防災避難上の観点から武蔵、下総両国の境界線の役割をしていた隅田川に両国を繋ぐ、両国橋が架けられた。
火災時の火除け地帯として沿岸に空き地を設け、それが上野、浅草と並ぶ両国広小路となったことなどなど、特に、災害による教訓が、都市の構造に影響を与えて行ったと言う話は興味深く聞きました。
そう言えばこれもテレビ知識なのですが、東京に銀杏の街路樹が多いのは、銀杏が水分を多く含むため、並木が延焼防止帯となることが震災時に証明されたことによる、という話がありました。
今日のコースは下記の通りです。
①両国駅集合
②回向院、旧国技館跡
③両国橋
ももんじや、大高源吾の句碑、両国広小路跡
④浅草橋
浅草見附、郡代屋敷跡
⑤柳原通り
柳原土手跡、柳森神社、神田ふれあい橋
⑦万世橋
旧万世橋駅、御成道(筋違門跡)
⑧淡路坂(一口坂(いもあらいざか))
昌平橋、太田姫稲荷(一口稲荷)
⑨湯島聖堂
⑩神田明神
⑪東京都水道歴史館
神田上水石樋
⑨水道橋解散
解散後、水道橋で遅いランチをとり、浅草に向かいます。