栗山馬頭観世音菩薩

11月25日(月)、第2、第4月曜日は四街道自然同好会の生き物調査の日にあたります。

第2がたろやまの郷で、第4が四街道総合公園と決まっていて、はっきり理解していたはずなのですが、なぜかすっかり第4月曜日の25日に「たろやま」と思い込んで、向かいます。

蓮花寺前の六地蔵(年代未確認)

時間ぎりぎりに家を出た上に、最近道に自信が出てきたと思ったのに、曲がる角を間違えて、大回りする結果となり、ほぼ開始時刻の9時半に到着。

人が誰も居ない上、車も止まっていない、ということは皆、既に歩き始めているということではなく、夜中まで雨降っていてたし、雨模様で中止なのか。

それなら連絡がもらえるはずだけど・・・まあ仕方がないなと諦めてしまったのが敗因でした。

東光山蓮花寺(真言宗豊山派)

新しいルートを開拓するために、いつもと違う道を探索しながら帰ろうと、栗山香取神社の前を抜け、交通量が多そうで敬遠している四街道インター方面に向かいます。

香取神社の紅葉が良い色をしているので、せっかくだから写真を撮ろうかと思いますが、車を止め難く、通り過ぎました。Uターンをしようと東光山蓮花寺前の空き地に車を突っ込むと鼻先に馬頭観音がいます。

敦賀から四街道に戻り、あちこち歩き始めると、道ばたに石仏、石碑などが多々あることに気がつきました。

蓮花寺境内の大銀杏、樹齢150年の看板があります。

また、四街道の紹介にも〇〇の石像群などの言葉があるので、それなりに地元の名所ではあるのかと。これら石像の写真を撮って行きたいなと、漠と考えていました。

既に手がけておられる方も多いだろうし、自分がやっても性格上、きちんと整理が出来ずに雑然としたものになることは目に見えていますが・・・

どういう形で写真を整理すればいいのかと考えていたところだったので、とりあえず、とっかかりを造ろうかと考えます。

大銀杏

まあ、系統だった整理をするにはかなりの努力と時間が必要で、ちいと苦しそう。今回のようにブログで都度、思うままをだらだらと記述するだけで終わりそうです。

馬頭観音像の脇に四街道市指定文化財「栗山の享和元年馬頭観音」(昭和58年4月15日指定)の説明板が立っています。

この馬頭観音は、かつて、栗山地区馬洗(うまあらい:四街道インター付近)にあった。宝珠形にくりぬいた凹面に半肉彫りした観音の下部に下記の文字がある。

馬頭観音

『願主与五右衛門、庄兵衛

物井村、栗山村、長岡村、亀崎村、野田村(佐倉市吉見地区)、生谷村(おぶけ)、飯江村(いごう)(佐倉市飯合地区)、飯重村(えいじゅう)、羽鳥村、寺崎村、太田村十一ケ村の名前。

日付は享和元年(1801年)辛酉(かのととり)十一月吉日。』

馬頭観音

馬洗は、江戸時代から明治時代末頃まで、上記村々を結ぶ主要道である県道64号(臼井街道)と県道136号(佐倉街道)が交わる地であった。

馬洗には湧き水があり、茶屋、小料理屋などが街道に立ち並び、人馬休息の地として栄えたと伝わっている。

この地に各村の人々が 通行、 物資運搬の人馬息災を願って建立されたものと考えられる。」

馬頭観音 の記載文

今は、高速道が脚下を抉ってしまっていて、面影は全くありませんが、馬渡の周辺に人が行き交う場所があったんだなと想像するだけで、なんとなく嬉しくなってきます。

現在でも、佐倉方面からくる136号線は四街道インター手前で京成臼井駅からくる64号線に合流し、64号線として四街道十字路を抜け、千葉に向かっています。

当時は千葉市中央区寒川町都川河口(千葉港)にあった、佐倉藩寒川御蔵(米蔵)に繋がっていたのだそうです。

馬頭観音 背面
馬頭観音梵字

馬頭観世音菩薩(ばとうかんかんぜおんぼさつ、梵: ハヤグリーヴァ)は、菩薩の一尊。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩。

密教では胎蔵曼荼羅界のうち、蓮華部院の21菩薩のお一人で教令輪身(きょうりょうりんじん)で、すべての観音の憤怒身ともされる。

教令隣身は 密教において、如来が教導すべき対象である衆生の性質に合わせて三種の姿を取るとする  三輪身(さんりんしん) の考え方の一つ。

傍におられるお地蔵さん年代確認を忘れました。

本来の如来の姿である自性輪身(じしょうりんしん)、正しい法を護るために菩薩の姿をとる正法輪身(しょうぼうりんしん)、導き難い相手に対して忿怒尊の姿をとる教令輪身(きょうりょうりんしん)の三身観をいう。

それゆえ、柔和相の観音の菩薩部ではなく、憤怒相の守護尊として明王部に分類され、「馬頭明王」と称されることもある。

民間信仰では馬の守護仏として祀られ、さらには、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされていて、「六観音」において、畜生道を化益する観音とされる。

六観音は 密教において、六道それぞれの衆生を救う6体の観音で、地獄道に聖観音、餓鬼道に千手観音、畜生道に馬頭観音、修羅道に十一面観音、人間道に准胝(じゅんでい、あるいはじゅんてい)または不空羂索観音、天道に如意輪観音を配する。

ちなみに冒頭写真の六地蔵も同様に六道を見守る菩薩で、順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵あるいは、金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称するなど種々あるようです。

芝山町ホームページに六観音、六地蔵の記載があり、千葉県内に六地蔵1,700基、六観音40基などの情報の最後に、十五夜、十九夜、二十三夜など特定の月齢行事を行う講を組んだ記念として建立される例が多いとの記載があります。

栗山香取神社

馬頭観音の話に戻ると、四街道におられる馬頭観音像のお顔は柔和な感じがして、密教の明王のにおいは薄い気がします。

また四街道で見る馬頭観音は観音の姿がおられず、「馬頭観音」の文字だけを彫った石碑が多く見られます。碑だけの場合には個人的な愛馬の死を弔うという意味合いが強いという記述がありました。

栗山の馬頭観音のように地域の祈りを集約した観音様もあるとしても、もっと個人的な荷駄、農耕馬などの死を悼むものの方が多いということなのでしょう。

栗山香取神社

と、カメラをいじっているうちに思い出します。そうだ、今日はたろやまでなく、総合公園の日だったと。

時間は既に10時を過ぎていて、今から向かっても、もう終盤になっているのだろうと、諦めました。そうとなれば、車を移動し、目的の栗山香取神社に戻って境内の写真を撮ります。

栗山香取神社は宝永三年丙戌(1706年)5月7日創建。

栗山香取神社

栗山村の氏子の願いにより、下総一之宮、官幣大社香取神宮から分霊され、蓮花寺の鎮守として、創建され、農業守護、殖産興業、家内安全の神とされてきた。

祭神は香取神宮の祭神、経津主大神(フツヌシノオオカミ:日本書紀では経津主神 ) 。

日本書紀にのみに記述のある神で 、鹿島神宮の祭神武甕槌神(タケミカヅチ)とともに葦原中国(日本国)を平定した神とされる。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段、第六の一書では、伊弉諾尊(イザナギ)が火の神・軻遇突智(カグツチ)を斬ったとき、十握剣の刃から滴る血が固まって天の安河のほとりにある岩群・五百箇磐石(イオツイワムラ)となった。

これが経津主神の祖であるとしている。

第七の一書では、軻遇突智の血が五百箇磐石を染めたために磐裂神・根裂神(イワサクノカミ・ネサクノカミ)が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神(イワツツノオカミ・メカミ)が経津主神を生んだとしている。

巻第二(神代下)の第九段の本文も経津主神を「磐裂・根裂神の子、磐筒男・磐筒女が生(あ)れませる子」としている。

『古語拾遺』にも「経津主神、是れ磐筒女神の子、今下総国の香取神是れなり」とある。

『先代旧事本紀』巻第一(陰陽本紀)によると、伊弉諾尊の剣の先から飛び散った血が湯津石村(ユツイワムラ、『書記』の五百箇磐石)に走り就くと磐裂・根裂神が出てきて、その子の磐筒男・磐筒女が経津主神を生んだとされる。

経津主神 の謂われとして、「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、刀剣の威力を神格化した神とする説、神武東征で武甕槌神が神武天皇に与えた布都御魂(ふつのみたま)の剣を神格化したとする説、物部氏の系図に「フツ」が頻出することから物部氏の祖神である天目一箇神の別名とする説などなどがあるのだと。

葦原中国へ派遣された天稚彦(アメノワカヒコ)の死後、高皇産霊尊(タカミムスビ)は諸神を集めて次に遣わすべき神として経津主神を選んだ。

栗山香取神社

熯速日神(ヒハヤヒ、甕速日神の子)の息子武甕槌神(タケミカヅチ)が進み出て、「経津主神だけが大夫(ますらお、雄々しく立派な男の事)で、私は大夫ではないというのか」と抗議し、経津主神に武甕槌神を副えて葦原中国を平定させることにした。

両神は対で扱われる事が多く、利根川を挟んで、鹿島と香取に祀られているのもその証ではないかと。鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社であり、背景には、両神宮が軍神として信仰されたことがあるようである。

栗山香取神社

古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼(印旛浦)・手賀沼(手下浦)を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座している。

この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点となり、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。

栗山香取神社

古代に勢力を持った物部氏は中央では失権したものの、地方進出に伴い広がった物部一族は衰えることはなかった。

その一つに下総物部氏があり、 布都久留 の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出し征圧した。香取神宮の鎮座地、下総国香取郡は物部匝瑳連の匝瑳郡と物部信太連の信太郡にはさまれている。

栗山香取神社

匝瑳郡には式内社の老尾神社、物部匝瑳連の祖、物部信太連とされる物部小事を祭神としており、物部氏の氏神として創建されたということなのでしょう。

神護景雲2年(768年) 、藤原氏の氏社として創建された春日大社 には経津主神が建御雷神が勧請された。

奈良時代には、香取神宮・鹿島神宮のある常総地方は中臣氏(藤原氏)の本拠地となっており、両社の祭神を勧請したものであるとされている。

というところで、さあ今日の失態を、どう人に説明しようと落ち込みつつ、帰路につきました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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