目利きの東京建築散歩「深川・越中島」

八幡橋(旧彈正橋)

朝日カルチャーセンター千葉教室の企画目利きの東京建築散歩、折に触れエントリーして、もう6、7回は参加していているでしょうか。

以前にも書きましたが、自分が参加するようになる前に回数を重ねているツアーなので、出し尽くした感があり、最近は郊外が多く、めぼしい建物が少なくなっているなと感じていました。

深川不動尊

リピートでいいから、以前行ったところを繰り返して欲しいというのがわがままな要求ですが、常連もいることで、なかなか難しいのだとは思います。

今回、集合場所が門前仲町駅ということで、久しぶりに街中、期待がふくらみ、是非参加しなければと。

深川不動尊

この日は日比谷図書文化館の古文書教室とスケジュールが重なったのですが、翌日の同じ先生のクラスに振替をしました。

古文書のクラス、自分の通っている入門コースの「いろは」教室は先生が5人いて、各先生が日時を変えて2回ずつ同じ講義をする形をとっています。

富岡八幡宮

各先生の時間毎の授業の進捗状況が揃えられているので、第何回目の講義と指定すれば、先生によらず授業を受けることが可能と言うわけです。

集合時間の30分程前に門仲に到着 。

集合場所は門仲駅の富岡八幡宮改札、場所を確認して、深川不動尊と富岡八幡の御朱印をいただきに廻ります。

富岡八幡宮

深川不動尊の参道で、以前、深川飯の幟に惹かれて入った店で、ぐちゃぐちゃに柔らかいご飯の「深川飯」を食べさせられた店があったのですが、どうやら閉店になったようでした。

食い物と言えないような「名物」を出す店が長続きするはずが無い、と思いますが、それなりの時間を経過している店のようでしたので、代替わりでもして、調理人がいないということになっていたということなのかも知れません。

富岡八幡宮

そう言えば、以前、富岡八幡宮の入り口によさげな深川飯の店、深川宿を見付けました。本店は昼間だけだけど、富岡八幡店は夜の営業もあるようです。

深川不動、富岡八幡で御朱印をいただき、集合場所の改札に戻ります。集まった人数は15人程度。いつもに比較して、大分少ないような気がしました。

富岡八幡宮から深川不動尊への道

今日廻るところに目玉の建物がない、ということなのかも知れないし、街歩きになれた人達には門仲駅周辺に新鮮味がないと言うことなのかもしまれません。

なるほど、コース選定の難しさというのはこういう形で影響を与えることがあるので、素人の要望だけで決められないところなんでしょう。

横綱力士碑

スタートは富岡八幡宮。ひとしきり、「あの事件」話で盛り上がります。

御神輿、伊能忠敬像など自分にはお馴染みのところですが、神社を抜けた裏手に横綱力士碑があるのは知りませんでした。

ホームページの記事をお借りすると、富岡八幡宮は「江戸勧進相撲発祥」の地として知られているのだそうです。

横綱初代~

相撲興行が人気となり、興業にまつわるトラブルが頻発すると、幕府は貞享元年(1684)、 相撲興行を富岡八幡宮の境内での春秋の2場所の勧進相撲に制限します。

以降約100年間にわたって本場所が富岡八幡宮境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立された。後に本場所は、本所回向院に移った、とのことです。

雷電為右衛門

明治33年(1900)、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰し、初代明石志賀之助から歴代横綱の四股名を刻んだ碑が建立された。

碑本体の裏面は第45代横綱若乃花(初代)までが刻まれ、その後の横綱は左右に造られた福碑に刻まれている。

花街の名残の家のようです。

また、欄外の左上に無類力士雷電為右衛門の名前が刻まれていました。

新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納されるのだそうです。近くには大関力士碑など相撲関連の記念碑があり、相撲好きには今更、という程の聖地なのでしょう。

花街の面影

富岡八幡宮を出て、辰巳芸者で知られた深川花街を偲ばせる家並みを抜けると重要文化財(1977年指定)八幡橋があります。

明治11年(1878年)スクワイヤー・ウイップル(アメリカ人技師)の設計に基づき、工部省赤羽分局が製作、現在の中央区北八丁堀付近の楓川に架橋された。

八幡橋(旧彈正橋)

島田彈正(利正)の屋敷が近所にあったことから、 利正の官名にちなんで 彈正橋と名付けられた。

関東大震災後の震災復興計画によって廃橋となったが、その由緒を惜しんで現在地に移設。当時、橋下は八幡堀という河川であったが、後に埋め立てられ、人道陸橋となっている。

八幡橋(旧彈正橋)
八幡橋(旧彈正橋)

島田彈正は 徳川秀忠に仕え、 小田原征伐の鉢形城攻め、関ヶ原の戦いなどに参戦した武将で、関東入府後、江戸南町奉行に就任、市政の制度化に尽力、従五位下弾正忠に任官された。

八幡橋は、アーチ材を鋳鉄製、引張材は錬鉄製という鋳錬混合の独特な構造手法の施工で、鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁史上において非常に価値の高い橋とされているとのこと。

八幡橋(旧彈正橋)

旧彈正橋に代わり、若干位置を変えて架け替えられた彈正橋は今でも残っており、脇にある楓川彈正橋公園にに旧彈正橋のミニチュアが残されているようです。

八幡橋から、深川不動はパスして、戦後闇市跡にできた昭和レトロの辰巳新道を通り抜けて深川東京モダン館へたどり着きます。

東京モダン館はもともとは、関東大震災の復興計画の一環として東京市が建設した東京市深川食堂。

東京市が社会事業施策として、 低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設として大正9年(1920年)から設置を始めた16ヶ所の市設食堂 のひとつで、 関東大震災の復興事業の一環として昭和7年(1932年)に竣工。 延床面積106坪。

昭和11年に閉鎖されたが、13年に東京市深川栄養食配給所として活動を再開した。

東京大空襲で被災したが、部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、54年に江東区へ移管されて「江東区内職補導所」と改称、数度の名称変更を経て、平成18年に閉鎖されるまで利用された。

震災復興の近代建築物としての希少性が認められ、平成20年に国登録文化財に登録された。

現在は江東区の地域資源や江東区の情報を紹介するともに、江東区の近現代史や食文化に関連した展示や事業を行う拠点として使用されている。

東京モダン館を後にして、伊能忠敬住居跡の碑、澁澤倉庫株式会社の渋沢栄一邸跡、佐久間象山砲術塾跡を通り、永代橋の手前を隅田川沿いに広がる永代公園を歩きます。

天気が良ければ、と思いますが、かなり強く雨が降ってきて、写真を撮る意欲がしばし薄れて、ただ、ひたすら歩きます。

さらに越中島公園を抜けて相生橋を渡り中の島公園を抜けて、最終目的地の東京海洋大学にたどり着きました。

今日の目玉の一つであった明治丸見学は14時半で閉館になっていて、中には入れませんでしたが、明治丸の外観と旧東京商船大学の旧天体観測所第一、二観測台を見ることができました。

東京海洋大学は 平成15年 ( 2003年 )10月に東京商船大学と東京水産大学が統合し、2004年4月から学部生の受け入れを開始した。

東京商船大学 ( 現海洋工学部 )の前身である私立三菱商船学校は 明治8年 ( 1875年 )11月設立、1925年東京高等商船学校に改組。

東京水産大学 ( 現海洋科学部 )の前身である大日本水産会水産伝習所は 明治21年 ( 1888年 )設立。両学部とも120年以上の歴史を持つ。

当初商船学校は永代橋袂の霊岸島(現在の中央区新川)に繋がれた成妙丸を校舎とし、水産伝習所は越中島に校舎があったが、後に商船学校も越中島に移設された。

明治丸は、灯台巡視船として日本政府がイギリスに発注し、天皇の乗る御召し船や練習船としても使用された。国の重要文化財に指定されている。

明治初頭、洋式灯台の建設に伴って、その測量やメンテナンスのために灯台巡視船が必要となり、さらに灯台の増加により新鋭船が要求され、イギリスのグラスゴーにあるネピア造船所に本船を発注、1874年9月26日に進水、同年11月24日に竣工。

東京商船大学旧天体観測所(第一観測台)

正門の脇に建つ東京商船大学旧天体観測所(第一観測台)は煉瓦造,2階建の観測台で,経緯儀室または赤道儀室が置かれた。

1階は八角,2階は円形の平面をもち,2階外壁を漆喰塗りとしドーム屋根をかける。

東京商船大学旧天体観測所(第二観測台)

第一観測台の脇に建つ 第二観測台は 煉瓦造,平屋建の小規模な観測台で,子午儀室が置かれた。平面は八角形で,屋根は八角錐,鉄板葺とする明治期の観測施設。壁面等に独特の観測用開口部を設ける。

細部意匠は第一観測台と類似し,設計は両者とも三橋四郎 (慶応3年(1867年) – 大正4年(1915年) )と推定されている。

東京海洋大学

海洋大学の見学を以て、解散し、門仲に戻る人が多かったのですが、会社に居た頃、電車で通り過ぎるだけで、乗り降りしたことのなかった越中島に歩き帰宅しました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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