智積院 等伯 夕暮へ

法住寺を出て、東大路、清水一芳園さんのお洒落なカフェでマグロ丼のランチをします。

智積院に向かって歩く道はプラタナスなのでしょうか、黄色く染まった街路樹に冷たい風が吹き抜け、冬の最中にいることを体感します。

山門の前にある、総合受付で拝観料を払いますが、等伯の絵が収められている「収蔵庫」と名勝庭園が対象の様で、本堂などは含まれていません。

お訊きするとその他の施設はご自由にお詣り下さいと。

それも外からお詣りするだけで、中に入ってお詣りするというシステムは無さそうでしたが、もう少し、しつこく訊けばよかったかと・・・

収蔵庫に入って茫然とします。等伯の「楓図」「松に草花図」1593年、息子の久蔵の「桜図」1592年を始めとした、長谷川一門の絵が周囲を囲み、迫ります。

長谷川等伯 楓図 1593

これらの作品が智積院の所蔵となった経緯には、秀吉が直接的、間接的にからんでいるようで、面白い。

智積院の地は、以前は1591年、3歳で死去した愛児鶴松の菩提のために、秀吉が開基した祥雲寺があり、等伯等の障壁画、襖絵はその書院を飾っていたものであった。

一方、智積院は、元々は高野山から根来山に移された、真言宗の修行道場である大伝法院の塔頭であった。

1585年、大伝法院と秀吉との対立が激化し、秀吉の根来攻めにより、全山焼失、智積院の住職玄宥は僧達を連れ、高野山に避難した。

玄宥は智積院再興を願い、秀吉の死後、1601年、家康により、秀吉を祀る豊国神社の附属寺院の土地、建物を与えられ、智積院を再興する。

さらに、豊臣家滅亡後、1615年に隣接地にあった鶴丸の菩提寺である祥雲寺を合わせ与えられ、寺域を拡大し、その客殿も智積院の所蔵となったということのようです。

豊国神社、祥雲寺を秀吉に苦しめられた玄宥に与えたことは、単に土地利用の問題だったのか、豊家への決別、あるいは勝者の理として天下統一を知らしめるなどの意図が家康にあったのだろうか・・・

オリジナルの伽藍は焼失したが、障壁画、襖絵は難を逃れたのだそうです。

玄宥僧正

この心地良い空間から出るのが惜しい気がしますが、夕方のことがあるので、庭園に向かいました。

書院に座り込み、暫くの間、庭園を堪能した後に、境内をゆっくりと巡り、大師堂、金堂などをお詣りします。

既に時間は4時を過ぎています。可能であれば三十三間堂をお詣りしたいと門前まで歩きますが、閉門時間が近く、諦めます。

昨年は、昼間歩いた後にホテルに戻って、一寝入りしてしまったのが敗因で、竹林にたどり着いた途端にライトを消されると言う事態になりました。

昨年の二の舞になるのは嫌だし、予備のバッテリーも持ってきたことだし、このまま嵐山に向かうことにします。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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