嵐山

12月14日の続きです。

嵐山というと嵐山電鉄で行くのがほとんどでしたが、今日は、三十三間堂から駅まで歩き、JRで嵐山に向かいます。

渡月橋に着いた時には、ライトアップが始まりつつありましたが、まだ、陽が沈みきらず、ライトアップと言うには少々早い。

渡月橋の近くのお店は人だかりで、入るのはおろか、物を買うのにも行列の状態で、パスします。

今まで歩いたことがありませんでしたが、桂川沿いに下流方向に歩いて行くと、人もまばらになり、売店にも人が見えなくなります。

缶ビールとおつまみになりそうな串揚げを購入、河岸にあるベンチに座ってお食事しながら暗くなるのを待ちます。

河原を見ると三脚で場所取りしている人も多く、一様に闇を待ち望んでいる様子。

嵐山花灯路は何回か来ていますが、今年始めて加わったのが、天龍寺塔頭の宝厳院。昨年中途半端だった竹林とともに必須だなと。

京都のライトアップも最近プロジェクションマッピングが増えてきて、今まで高台寺、二条城と嵐山の法輪寺で拝見させていただきました。

どうも、自分としては、京都のお寺に、あまりプロジェクトマッピングの必然性が感じられない、いたずらに時間を過ごすだけ、というイライラ感だけが記憶に残っています。

まあ毎年変化するのだろうから、1回だけ見て、とやかく言ってはいけないとは思うのですが、取りあえず、今年は法輪寺を含めて、河岸向こうはパス、まずは宝厳院から竹林を目指しました。

宝厳院の今の佇まいは最近のものらしい。

1461年、室町3管領の一人である細川頼之が夢窓国師の法孫、聖仲永光禅師を開山として宝厳院を創建。

応仁の乱(1467-1477)で焼失するが、天正年間(1573- 1591)に豊臣秀吉により再建された。

創建当時は上京区にあったが、明治時代に河川工事の土地収用を受け、天龍寺塔頭弘源寺内に移転、2002年に旧塔頭妙智院跡の現在地に移転した。

妙智院跡地は畑となっていたが、大正時代に個人の別荘として買い上げられ、整備されており、当時の書院が残っている。

「獅子吼の庭」と呼ばれる嵐山の風景を借景とした回遊式庭園が著名で、妙智院住職の策彦周良(さくげんしゅうりょう1501-1579)の作庭とされている。

策彦周良は臨済宗の禅僧。五山文化の碩学として、著名であったが、当人は世にでることを嫌い、妙智院住職としての職を全うしたのだそうです。

2回に渡り副遣使、正遣使として明に渡った経験を持ち、また、今川義元、武田信玄、織田信長などの武士および公家等との交流があり、武田信玄に招かれて甲斐武田家の菩提寺である恵林寺の住職も務めた。

畑になっていた、個人の別荘となっていた、等の文章から、策彦周良オリジナルの庭が今の姿と同じなのかどうか疑問が残りますが、書院とその前を流れる水の流れが、印象に残る庭でした。

借景というからには一度、昼間の姿も見てみたいと思います。

竹林へ向かう前に、再度、渡月橋まで行き、さらに暗くなった状態でのライトアップを確認します。

藪の中の人形

ようやく竹林へたどりつきますが、最初に見た頃のイメージからすると、ライトアップの範囲が狭まったような気がしますが、よくわかりません。

そんなことしているうちに雨が降り始めます。ホテルに帰っていれば、念のためと、リュックに傘を入れておいたのですが、直行してしまいましたので・・・

常寂光寺

夜の嵯峨野では傘を売っているようなところもなく、早めに切り上げて帰ることにします。

二尊院の先に嵐山へのシャトルバスの乗り場があるということでしたが、行ってみると大行列ができていて、諦めて濡れながら歩くことにしました。

二尊院 入り口で失礼しました。
くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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