駅でもらった地図を見ると、法隆寺の五重塔を起点として、法輪寺および法起寺の三重塔を巡る三塔周遊コースがあります。
まあ、全部歩いて、駅に戻っても、5~6km程度かなと、法輪寺に向かいます。
案内地図への記載はあるのものの、中宮寺から北へ向かって歩く旅人は、ほとんど居らず、単独行に近い形になり、田舎道をのんびりと歩きます。
そう言えば、この法輪寺へ向かう道もそうですが、たどり着いた法輪寺、法起寺のお寺自体、あるいは周囲の佇まいなど、田舎田舎した雰囲気は、たとえば、京都ではあり得ない感じがします。
生きた信仰の証としての、お寺の集中度、周辺の住宅事情などが関係するということなのでしょうか。
都を外れた年月というものをなんとなく感じられるのかなと・・・とはいえ、遠くから屹立する塔が拝めるのは自分としては好きな光景です。
今回、法隆寺の西院伽藍の五重塔と金堂、講堂の佇まいに圧倒されました。
歴史の重み、国宝の林立、という知識から来るものもあるのでしょうが、五重塔、金堂を左右に見て、正面に講堂とその背景の真っ青な空を拝んでいると、迫ってくるものがあり、感動でした。
法隆寺の様な塔、金堂、講堂の配置は法隆寺式というのに対し、当時同時期に建立されたお寺は四天王寺式と言って、五重塔、金堂、講堂が一直線に並ぶお寺が多いのだそうです。
飛鳥京と、当時、大陸文化の上陸の地であった難波を結ぶ道、太子道に対して、配置に角度が17度ずれている。
近傍で発掘された四天王寺式の若草伽藍がまさに角度的には太子道の角度に一致する。
しかしながら、五重塔の部材は590年代のものが見つかっているなど議論があったらしいが、法隆寺の壁画が発掘されたということで、焼失したことは確かなのだろう。
ということで、7世紀に建立されたが、8世紀に再建されたのでは、という説が強いのだそうです。
それでも最古の木造建築物であると・・・
ただ、その歴史の深みに対して、意外と狭いのかなと、不思議な感じがしました。
天皇家の権威が確立していった時代の建立であれば、もっと、もっと構造的な広がりを持った構造物になっていたのではないのだろうか・・・
創建の時と再建の時で、何か事情があり、狭められたようなことがあったのか・・・
そろそろ記事にしなければいけないと思いつつ、手が付いていないのですが、昨年12月に、上賀茂神社をお詣りしました。
特別拝観の本殿前でお話を伺って、なるほどと・・・
遷宮の祭に、ご神体を仮にお納めする権殿が本殿の隣に双子のように並んでいます。
遷宮の度に建物を建て替えてしまうので、、行事を思えば、その歴史は営々の長きを誇るわけですが、建物自体は常に新しくなってしまい、時代時代に再建された構造物になるのだと。
経済的な側面が大きいのでしょうが、江戸時代から遷宮で建物を刷新することをせずに、檜皮屋根の葺き替えにとどめるようになり、現在の本殿、権殿(共に国宝)は1863年の建立となっている。
まあ、当然補修は別にして、ということになりますが。
法輪寺、法起寺は太子の御子である山背大兄王の建立によるものですが、残念ながら、法輪寺は昭和19年に落雷により焼失してしまったとのこと。
法輪寺から法起寺へ向かう田圃の中に、こんもりした丘が見えていて、これが山背大兄王の墳墓と伝えられているのだそうです。
文化財の保護はその保護の範囲と保護の程度をどこまですればいいのか・・・
文化財保護だけ厚くしていては国が立ち行かないというのは当たり前ですが、室生寺の五重塔の損壊も驚きましたが、昭和に入っての落雷って、残念至極な気がします。
まあ、昭和19年っていう時期に、文化財保護を言い募ることが難しいことは極めてよく理解できます。
法起寺にたどり着き、前記しましたが、お寺の雰囲気のちょっと田舎風で境内が野原のようなイメージになっているのに少々驚きました。
訪れる人も少ないのでゆったりと腰掛けて、三重塔を眺めていました。
法起寺からは来た道を帰る人が多いようでしたが、そのまま南に下り、いまより東にあったという中宮寺跡、上宮遺跡公園などを訪れつつ駅に向かいます。
中宮寺跡は今年の春に向けて人を受け入れる準備を進めるための工事中のようで、入ることが出来ませんでした。
遠くから見ると、おそらく、金堂の跡を示すと思われる土の盛り上がりが見えました。
食事をするところを探しますが、時間が既に3時近くになっています。
遠くで見つけて、目指した料理屋さんは、ランチタイム終了でしまっていました。
諦めるかとさらに歩き、コメダ珈琲があります。敦賀ではなかなか入れないから、ここでいいかと。
食事を終えますが、疲れがでてきて、なかなか立てませんでした。