高校1年のときに初めて「雲取山」に登りました。
雲取は東京都で一番高いところになります。前の晩に山腹の三条の湯まで入り、翌日雲取に登り、石尾根といわれる長い尾根を下りて氷川にでた記憶があります。今見ると結構な距離を歩いたことになります。

その後、高校時代はサッカー部に所属していて時間がなかったせいか、山に行く機会はそう多くありませんでした。夜行日帰りで尾瀬に何回か行った記憶がある程度です。
「あらかん」世代は今では確かに60歳近辺で年寄りしていますが、高校時代は上からは戦後生まれの新人類的扱いを受け、戦争を知らないシラケ世代の始まりって感じで捉えられていました。
ちなみに高校一年の時に東京オリンピックがありました。開会式の日はサッカー部の練習日で休憩時間にグランドに横たわって国立競技場の空に描かれる五輪マークを見ていた記憶があります。

高校時代の「あらかん」は受験、異性、死への思いなど、若いなりに皆苦悶しており、クラスでも、サッカー部でも本分と異なるところで、色々問題を起こし、どたばたの高校生活を送っていました。
そのうち思い出しながらそのころのことも書いてみたいと思います。
クラスの担任教師は転勤してきて最初に受け持ったのが自分たちだったこともあり、困った奴らだという感じでありましたが一緒に悩み、考えてくれました。
国語の教師だったのですが、自分でも小説を書いて発表している人で、まるで作文の鍛錬みたいに生徒にも始末書というか自分達のしたことの反省文を何枚も何枚も書かせました。
物書きなので人の心のひだに迫る迫力があって、気持ちを飾ったり、嘘を書いたりすると見透かされて皮肉を言われるので、皆必死に書いていたと思います。
皆があがいている中で1人、受験体制からだんだん外れ、取り残されつつあってボンヤリしていた自分が居たような気がします。
成績急降下でサッカー部も親に退部させられたのですが、唯一打ち込むものも失ったという状況でした。
2年の時にクラス替えになり、先生は別のクラスになりましたが、3年生になって、再び担任になった先生・・・
ニヤニヤしながら「以前、お前に実力はあると言ったけど、あくまでも努力することが前提なのに、今のお前の怠惰な状態では今年はどこも無理だ。」と・・・
まあ言われるまでもなく、当然のように大学入試に敗れ、浪人が決定しました。

不合格発表後、どこに出かける気にもなれず、世の明るいところを避けるようにしていました。
親にしてみれば努力が報われず、落ち込んでいる可哀想な息子だったと思うけど、「なにもしない当然の報いの癖に、悲劇しやがって」という目であざ笑う自分もいました。
雨戸を閉めたままの暗い部屋に篭って、当時、クラシックとしては大ヒットしていたイムジチの「四季」を繰り返し聴いていました。
「春」がセクシーというか官能的というか、たまらない感じでしたが、まあ全部満遍なく好きでした。
クラシックでも、バロックは演者によって曲の感じが随分違ってしまうことがあるように思いますが、大分経ってから違う楽団の「四季」を聞いたときにはえ?という感じでした。
自分の心理状態の違いもあるのかもしれません。
穴に閉じこもった生活が続いて、桜がほころび始める3月末、ストレートで大学に入った高校の友人が夜叉神峠に行こうと誘いに来てくれました。
どうやって夜叉神峠に行ったのかは全然記憶にありません。
たどりついた夜叉神はまだ深い雪に覆われていました。踏み固められた雪の上を歩きつつ、時折踏み抜いて腿まで潜りながら、1時間あるいは2時間だったか覚えていませんが、大きく開けた峠にでました。
<白根三山・北岳 南アルプス市観光協会>
我々のほかには人一人いない真っ白な広い峠で目の前にある北岳の威容に圧倒されていました。
友人がこの感動を経験していて自分に伝えたかったのか、自分も見たことがなくて同じように感動していたのか・・
それを彼に聞いたのかどうかも覚えていませんが、圧倒された様子でバットレスを見上げているらしいことは判りました。
振り返ると白い富士山が見えました。
その感激に目を洗われるような思いで、心に誓い、日々、受験勉強に励む・・・
<夜叉神峠 南アルプス市観光協会>
というようなことはなく、浪人生でありながぼちぼち山に登るようになり、そのせいではないと思いますが次の年の受験も失敗し2年も浪人することになります。