2016年12月19日はクラブツーリズム主催の中央沿線歴史探訪シリーズ第11回国立駅から日野駅に参加しました。
この後、さらに、日野~豊田(1月)、豊田~八王子(2月)と八王子~西八王子(3月)に参加し(写真が沢山寝ています)、4月の第15回目、西八王子~高尾に参加して桜を観ながらの高尾登山を楽しみにしていました。
が…前の記事に書いたような都合で閉じこもりで作業を継続していましたので参加難しく断念、残念でした。
奥さんは同シリーズの第1回目から参加、最終である西八王子~高尾山の回まで参加して、山手線1周に続いて、完歩証をもらっています。
雨に祟られ、桜も今一だったということで、まあ、諦めがつくかと。
この中央線沿線シリーズで、今まで歩いてみて感じたのは、人間の歴史よりも、武蔵野台地の形成されていく歴史が面白そうだなということでした。
各地の固有の歴史を追求していけば、それなりに面白いと思うのですが、京都を中心として滋賀、福井、岐阜などが宗教的、政治的に絡んで、歩くところ歩くところが、関連しあって繋がって行く、というような福井中心のぶらり歩きの面白さに欠ける気がします。
歴史を愉しむのは旧江戸の府内が面白そうで、こちらはこちらでワクワクしているのですが…
人の歴史よりはむしろ武蔵野台地自体の成り立ち、その地形が造り出す、豊かな水の世界が一番の目玉なのかと、いうことです。
当然、ガイドの方の説明のなかに地形的な話は毎回あるのですが、根本を理解していないので、頭の中を通り過ぎて行って、残っていません。
キーワード的に、多摩川による浸食、段丘、立川面、武蔵野面、崖線、湧水、緑地などが記憶にあります。
それらの言葉で検索すると、段丘の境目の崖線に沿って形成される緑地が各自治体の憩いの場になっているようで、各々のホームページでも、その魅力が紹介されているようです。
その中で、(社)東京都地質調査業協会は東京における建設物の設計施工に必要な地質調査に関わる膨大な調査結果を、技術ノートとしてまとめて公式サイトて公開しています。
タイトルが「東京の台地」、「東京の水辺」、「東京の遺跡」…「東京の埋立、その歴史」などなど、さらには「江戸城の成り立ち、その地形、地質との関係」なんてノートもあります。
協会の説明によると、「東京を舞台とする様々な話題の中に地形、地質との関連又は基礎工学的な話を織り込みながらその歴史や現在を伝える内容」とあります。
既刊全49号の技術ノートのボリュームは凄まじく、古希に至る素人が挑戦するには内容も難しく、なかなか大変ですが、時々アクセスして参考にさせていただこうと考えています。
その他に、「崖線」の紹介と歩き方の参考になる以下のようなサイトがあり、ワクワクします。
どうも、これは、今までのテーマであった「歴史」、「宗教」、「建物」、「サクラ、紅葉と山」に、「湧水と緑」を求める旅が加って、ますます間口が広がることになりそうで、困ったことになりました。
東京の緑を守る将来会議:東京都、区市町村合同で「緑確保の総合的な方針」を策定。行政、都民やNPO、企業など多様な主体と連携しながら緑を保全する取組。
東京都環境局「雑木林の道」:多摩東部地域に残る雑木林を保全し、 武蔵野らしい風景をつづる道を、都民の憩いの場として積極的に活用する目的とした事業。
世田谷区「国分寺崖線保全の取り組み」:等々力渓谷などを含む国分寺崖線の詳細な紹介、ウォーキングの為のMAPまで付いています。
小金井まち歩き-国分寺崖線・坂とハケの道(崖線を「ハケ」あるいは「ママ」と呼ぶらしい。)
というところで取りあえずの理解力で概括すると、下記のようになるのかと。
「武蔵野台地」は奥多摩湖より注がれる多摩川により、青梅付近を扇頂として形成された扇状地が基礎になっており、その上に富士山の噴火による火山灰を起因とした砂泥土である関東ローム層が堆積している。
多摩川の源流は山梨県と埼玉県にまたがる笠取山(1953m)を水源とする一ノ瀬川で、柳澤川と合流し、丹波川として奥多摩湖に注ぎ、奥多摩湖以降を多摩川と称する。
多摩川は約7~10万年前には膨大な水量を有する大河であったようで、山地から解放される部分で、削り取った土砂を大量に沈積させ、広大な扇状地を形成したということのようです。
多摩川は流路を変えながら、悠久の年月による土砂の堆積と、浸食により、河岸段丘を形成し、各段丘の縁端は段差数メートル程度の崖になっている。
最も低い段丘を立川段丘あるいは立川面(部分的にさらに低い青柳、拝島面の存在はあるが)、立川面より一段高い段丘を、武蔵野段丘あるいは武蔵野面と呼ぶ。
段丘の縁端に沿って延々と続くこうした崖は崖線(がいせん)と呼ばれており、崖線は前記したように「ハケ」あるいは「ママ」とも呼ぶようです。
立川面(立川市、府中市、調布市等を含む)は立川崖線によって多摩川の沖積低地と分けられていて、国立市谷保から青柳にかけて、および昭島市付近や青梅市付近に青柳崖線に区分されたさらに低位の青柳面を抱えている。
立川面とさらに上の武蔵野面とは国分寺崖線(こくぶんじがいせん)によって分けられている。
国分寺崖線は武蔵村山市緑が丘付近に始まり、西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅付近を通り、JR中央線を国立駅の東側で横切る。
さらに国分寺市・小金井市と国立市・府中市の市境に沿って東に進み、深大寺、等々力渓谷を通って行く。
と、キリが無いのでにわか勉強結果はこれくらいで…
今回のコースは下記の通りでした。
集合:JR国分寺駅→(一橋大学前、素通り)→谷保天満宮
谷保天満宮は延喜3年(905年)菅原道真三男三郎道武が父の死を悼み、開基。養和元年(1181年)現在地に遷座。
道武が父の像を刻み、祀ったが、出来映えは今一であったらしい。ある年の神無月に、お布施集めのために、その像を担いで目白不動尊へ出張開帳した。
酒井抱一とも交流のあった、洒脱な文人、太田蜀山人(大田南畝)がその像を見て、下記の歌を詠んだのだそうです。
「神ならで 出雲の国に行くべきを 目白で開帳 やぼの天神」
神々が出雲に参集するこの神無月に、目白でご開帳とはなんと野暮な神様だこと、という所らしい。
この歌により、谷保天満宮は「野暮天」の語源になったとされているのだそうです。
谷保天満宮は国立駅から大学通りを真っ直ぐ歩いてきて、甲州街道に面した大鳥居を潜ると下り道となり、本殿に至る面白い構造となっています。
国立駅、甲州街道のある武蔵野面から入り、本殿は立川面、と国分寺崖線の縁に立っていることになります。崖線の緑を利用したということなのでしょうか。
→城山公園(豪族三田氏城館跡、通り抜け)
城山公園は甲州街道と多摩川の中間、青柳段丘崖のほぼ中心に位置する緑地で、雑木林の中に空堀、土塁や古井戸などが現存する中世の旧跡。
詳細不明であるが、延喜年間(901~923年)、武蔵野を統治していた平貞盛の館跡とされている。
その後、変遷を経て、緑地内に鎮座する神明宮の禰宜である三田氏の館となったのだそうです。中を歩いてみれば面白そうですが、雰囲気を楽しみつつ通り過ぎました。
→南養寺→矢川緑地保全地区
矢川緑地保全地区は立川段丘と青柳段丘が接する崖、矢川の水源。
→矢川弁財天→諏訪神社→普済寺→根川緑道→日野の渡し→JR日野駅
次回は日野駅から豊田駅まで歩くことになります。