かき氷で大分元気になって、唐招提寺に向かいます。
奥さんの日傘を借りてゆっくりと歩きますが、陽射しは強烈で、意識がちょっと遠くの方にある感じがします。
物音が耳から直接聞こえずに頭骨を介して遠方から聞こえる感じ?
唐招提寺までの道のりは歴史を感じさせます。
ゆっくり歩いて10分程度だったでしょうか、唐招提寺に到着・・・
南大門にかかる「額」は「孝謙天皇」の筆によるものと言われており、重要文化財の真筆の額は新宝蔵に納められていて、ここには複製がかかっています。
最近の居酒屋等で見られる、店名のロゴ化の走りみたいな感じがして良いなと思いました。唐招提寺のホームページで実際にロゴとして利用しているようです。
センスが感じられる・・・って畏れ多い言い方です。
孝謙天皇が予想もされなかった展開だとは思いますが・・・
鑑真大和上は授戒のできる僧を日本に紹介してほしいと請われ、自らが渡日することを決意。12年の年月をかけ、6度目の計画で753年に渡日を果たします。
渡日が成った時には失明されていたのだそうです。
芭蕉が唐招提寺の鑑真和上像を訪れて詠んだ、「若葉して おんめのしずく ぬぐわばや」という句碑があります。
周りの新芽が吹く頃に唐招提寺を訪れた芭蕉が、鑑真和上像を慈しんでいる姿が、鮮やかな緑色を背景に浮かんでくるような気がします。
鑑真和上像は御命日の6月6日のみの公開ということでお参りすることは出来ませんでした・・・
鑑真大和上は平城京に入り、東大寺で聖武天皇、光明皇后のご夫妻、その娘の孝謙天皇をはじめとして多くの人達に授戒を行います。
渡日から6年経った759年に、授戒のためのさらなる本格的な戒檀院を求めて唐招提寺が建立されます。唐招提寺は南都六宗のうちの律宗の総本山ということです。
前記した雑誌「一個人」の唐招提寺の記事ですが鑑真和上が日本に渡る経緯が記載されています。
6回の渡日の試みのうち、3回は航海に出る前に挫折。船に乗った3回のうち、第2回目は海に出る前に河口で座礁し、第5回目は海に出れたのですが、遭難し大きく南にそれて海南島に漂着したのだそうです。
中国政府は鑑真大和上の徳を惜しみ、渡日を許さず、全て密出国ということだったとのこと。国家に背いて、12年、繰り返し、繰り返し、渡日を諦めなかった鑑真大和上の胸の内に何が燃えていたのでしょうか?
授戒の道を持たない辺境の地での布教の熱意、請われて承諾したことへの責任の念、自分に請願した日本の僧への信義・・・あるいはこれらの思いが混合して和上を不退転の人生にかりたてたのでしょうか・・・
鑑真大和上がもたらした授戒のシステムは、東大寺を中央戒壇として栃木県の下野薬師寺、福岡の観世音寺にも戒壇院が設けられ、三戒壇による体制が確立したのだそうです。
授戒が東大寺に集中したことにより東大寺の権勢は強大なものになりますが、後日、最澄伝教大師の働きかけで、伝教大師の死後、叡山にも戒壇院ができ、奈良時代の授戒システムが崩れて行ったということです。
唐招提寺も修学旅行で来ていますが、金堂の姿をおぼろげに覚えているだけです。金堂は昨年、10年に及ぶ大改修を終えたばかりなのだそうです。
シンプルな形ですが素晴らしいフォルムだと思います。
金堂の中には入れず、外から仏像をお参りします。
中央に本尊・盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いずれも国宝)がおられます。
盧舎那仏は鑑真和上が授戒の時の本尊であるが、千手観音像は奈良時代末期、薬師如来は平安初頭の作ということです。
3体とも光背を含めてほぼ5m程度の高さになり、この3体を並べて金堂に納めるためにに意図を持って大きさをそろえたのだろうということです。
これらの仏像のお顔には金箔の名残が残っています。初期の形が残っているとは思えないので、修復がされていたのかと思います。
この他に梵天・帝釈天と四天王像がおられ、全て国宝ということです。
講堂を過ぎて本坊までたどり着くと、木陰の多い、雰囲気のいい小路になって鑑真和上の御廟にたどり着きます。途中にある鑑真和上像のある御影堂は閉ざされていて近づくことができませんでした。
新宝殿の仏像と天平時代の鴟尾、孝謙天皇の額を拝観後、売店兼休憩所で一休み。ここでも御朱印をいただき、バスを待って西の京にもどりました。