大分時間が圧してきましたが、ともかく三千院に向います。
境内では夕方の水撒きが始まっていました・・・
なるべく楽しようと、奥の奥まで進み、魚山園の手前ぎりぎりまで進むと左手に下りたところに比較的広い駐車場がありました。
魚山園は料理屋さんと思いましたが、お料理と天然温泉が売り物の高級旅館らしい。1人で泊まると2食付で3万2500円・・・それでも11月の紅葉シーズンの週末はもう空き室は少ないようです。
・・・外国のホテルに泊まること考えたら、食事付きで安いのかなと思います。
拝観は5時までとのことで、まあ50分くらいはありそうです。今頃入るのは我々だけど思ったら、他にも数組はおられて、ちょっと安心。
三千院の縁起を書こうと思いましたが、三千院の歴史は複雑で、俄か勉強では容易に理解できませんでした。
結局良く判らないままですが、三千院ホームページの説明にWikipedia などの説明を補填すると下記の通りになるようです。
「三千院は天台宗のお寺で山号は魚山、最澄が788年に延暦寺東塔南谷に薬師如来を本尊とする草庵「円融坊」を開いたことを起源とする。
円融坊はその後、麓の坂本に移される。
延暦寺内の各寺院は麓に僧の住いとしての「里坊」を持っていたのだそうですが、円融坊が坂本に移ったことを起源とするということなのでしょうか。
円融坊はその後、名前の変遷があり、梶井宮と呼ばれ様になる。1118年に堀川天皇の第2皇子、最雲法親王が入室します。
以降、皇族出身者が住持する宮門跡となり、妙法院、青蓮院、曼殊院、毘沙門堂とともに天台宗五箇室門跡のひとつとして歴代の天台座主を輩出する。
1156年に最雲法親王が天台座主となります。
その年に、大原魚山の来迎院、勝林院、往生極楽院などの寺々を管理するために、梶井門跡の政所を大原に設ける。
政所は要するに管理事務方の出張所というところなのでしょう。
梶井門跡はその後、場所を転々とし、大原を本坊としたこともあるが、徳川綱吉により市内の梶井町に迎えられる。
明治の代になり、1871年、当時の門跡が還俗したことにしたがい、大原に本坊を移す。
その時に、梶井宮にあった「一念三千院」から三千院と称し、往生極楽院をその境内に取り込むことになった。」
宸殿にご本尊の秘仏薬師如来と不動明王がおられて、この極楽院に阿弥陀三尊がおられる・・・
なぜにご本尊が2カ所に、というのは元々別のお寺であったものが統合されたということで理解できました。
近頃、当初の自分に対する戒めであった、「俄か勉強で記事を書かない」は放棄です。
薄っぺらな俄か知識でえらそうに文章を書かない、と言う自戒でしたが。
せっかく記事を書くのなら、自分の備忘録として、後で振り返れるようにしたい、と変心してきて、浅薄ながら少し調べて書くようになっています。
関連の書籍を読んで肉付けすべきと思いますが、まあ自分の満足だけだからと、ネットと雑誌や新聞記事でごまかしているところです。
寄り道が長くなりました。拝観の時間がないと言いながら、無料の写経をさせていただきます。
奥さんがじっくり写経に取り組み、御朱印をもらっている間に、さっさと写経を終えたくまは先に歩き出して、宸殿へ。宸殿は撮影禁止です。
さらに、ご本尊の薬師如来は秘仏ということでお姿も拝むこともできません。もう夕方の掃除を始めていたお坊さんに「御本尊が御開帳されることはないのですか?」とお伺いしました。
正確に回答を記憶していないのですが、「門跡というのは皇室のお寺なので一般に御開帳するということは本来あり得ない。一般のお寺でよく言われる77年に一度とかの開帳の周期というのはないんです。
この間、皇室の方(皇太子様だったか?)が来られるのを記念して一時的に御開帳された。その時は門前に大行列ができて大変なことになりました。」ということでした。
極楽院で阿弥陀三尊にお参りし、のんびりと境内を歩いているうちに、とうとう他の参拝客はいなくなりました。
表にでると門前の道も、もう誰も歩いていません。緑の映える三千院も良いけど、やはり紅葉の季節にまた来てみたいところです。
暗くなりかけた367号を北上し、途中の鯖寿司のお店で一本求めて帰ります。正直言うと以前に熊川宿で食べた鯖寿司の方が鯖の厚みといい、味といい数段上の様な気がしました。
どちらかと言うともう夕方の遅い時期でしたから、寿司の新鮮さと言う面では厳しかったのかも知れません。