朝、起きると野坂の頭の上が紅く朝焼けしています。
ガスでもやっていて山の際がはっきり見えませんが、山全体は昨夜で少し白さを増しています。
車で出勤しますが北東の方向にある三内山に連なる山に朝日があたり、輝いているのが見えます。
いつものルートを若干北寄りに変更して輝く山を撮ります。
三内山は西方岳と峰を連ねて半島の入り口に位置する山です。
敦賀山友クラブの力作「敦賀の山々」の地図をお借りします。この本には、敦賀の30の山のコースの詳細な説明が載っています。
昨年、野坂山の頂上でお会いした方に、同会の写真展が「げんでんふれあいギャラリー」で開催されることを伺い、覗きに行きました。
同会場で、この本のゲラ刷り版が紹介されており、そのうち刊行されるとのこと。
しばらく待っていましたが音沙汰さなく、忘れていましたが、なにか本か雑誌をと入ったKABOSのカウンター近くに平積みされている同書を発見。
「あ!!これだ」と即購入しました。
山の写真を撮っているうちにそう言えば、根っこのところにある西福寺はどうなっているんだろう・・・って時間を気にしながらも入り口まででもと、お目にかかりに行きます。
西福寺(西福寺ホームページ)は自分の家の宗派である浄土宗のお寺です。何回か拝観してお庭も楽しませていただいています。そのうち久しぶりに歩きで訪問しようと思ってます。
宗派と言っても、母が亡くなった時に、自分は我が家の菩提寺なるものを知らず、父に話を聞くと、「クマ家は浄土宗である」と・・・
父の田舎は静岡県榛原郡の静波です。そこの浄土宗の寺に「クマ家」代々の墓があると・・・
父は故郷を捨てたと自ら言う人だったので、そう言えば、父の父のことなど知らずで育ってきて、墓も知りませんでしたし、幼い頃お参りしたことがあったのかもしれませんが、記憶にはありませんでした。
自分の住んでいる所には浄土宗のお寺は少なく、大分離れた街にある浄土宗のお寺にお願いして葬儀を行い、戒名をもらいました。
それは自分でしたこと、と言うよりは葬儀屋のマニュアルに粛々と従ったということなのですが。
「宗教とは」という命題は自分の心の中にありましたが、自分の宗派ということは考えたこともありませんでした。
自分の出発点を浄土宗にすることでいいのかなと漠然と思っていました。いまだに覚悟定まりませんが・・・
その後、結局、自分で墓を造り、母は今そこに眠っています。お墓の開基にはやはり葬儀をお願いした浄土宗のお寺をお願いしました。
父は代々は浄土宗であるが自分には関係ないこと、自分が死んだ時には葬儀はするな、骨は埋葬せず、散骨しろということをいつも言っていました。
1月に逝った兄と同じ考えだったということです。
父は自分は拝まないから母の仏壇を自分の部屋に置くな、と拒絶し、仏壇はリビングにおいていました。
膝を悪くして、それでも病院にはいかなかった父は、晩年、いよいよ動けなくなってきました。
ある晩、階下で音がするので2階に寝ていた自分が恐る恐る見に行くと父が必死に仏壇に祈っていました。
自分に気が付くと、あわてていざって自分の部屋に戻って行きましたが、自分が動けなくなって、母に、仏にすがる気持ちになったのかと思いました。
父が亡くなり、自分が喪主となって、父の葬儀を行うに当たって、父の気持ちを裏切る形で、浄土宗で葬儀をしました。
宗教儀式でやらない時の大変さを避けた面があります。
父と最後まで「話」ができなくて、父の気持ちを無視して、俺のやり方でやるという意地もあります。仏にすがる姿をみたりして、無宗教と言う言葉をあまり重くみていなかったということもあります。
兄は「父の気持ち」を口にはしましたが、自分のやり方に反対することはありませんでした。浄土宗の戒名をもらい、葬儀が終わり、暫くして静岡の菩提寺に納骨することを兄と話をしました。
季節は秋口で9月だったか、10月だったか覚えていませんが、兄と二人で静岡に向かい、親戚の人間と父の納骨を行いました。
菩提寺の墓は歴史を感じさせると言えば聞こえはいいですが、今にも崩れ落ちそうな墓石が立っていました。
墓石を動かすと、今の墓のように骨壷を並べる場所はなく、おおきな甕が埋まっており、直径20cm程の小さな甕の口が開いているだけでした。
要するに埋葬は骨壷でいれるのではなく、甕の口から骨をバラバラと投入するということのようです。
菩提寺の墓は歴史を感じさせると言えば聞こえはいいですが、今にも崩れ落ちそうな墓石が立っていました。
墓石を動かすと、今の墓のように骨壷を並べる場所はなく、おおきな甕が埋まっており、直径20cm程の小さな甕の口が開いているだけでした。
要するに埋葬は骨壷でいれるのではなく、甕の口から骨をバラバラと投入するということのようです。
甕は上半分だけで底部はなく、土に繋がっています。下の方の古い骨は土に帰って行くということでしょう。
途方に暮れ、甕の脇に穴を掘り、骨壷を直接埋めることにしました。結構暖かい日で、式服でスコップを使って、兄と二人で穴を掘っていると汗が噴き出してきました。
骨壷を穴に納めた後、兄は「墓を立て直してちゃんと骨壷を納めるようにするよ」と言いました。その後話があるのかなと待っていましたが連絡はありませんでした。
数年前に、兄が父のお骨を墓から掘り起こしていったとの話を親戚に聞きました。その時は静岡でなく自分の家の近くにお墓を造るのかと思いました。
昨年、兄と会った時に聞くと、「散骨したよ。あれ?言わなかったっけ?」とのことでした。
今考えれば、兄は死に臨んで、覚悟を決めるに従い、父のことを思い出し、父の気持ちにも報いることを考えたのだと思います。
「クマ家」の菩提寺の見知らぬ祖先と自分を繋ぐ父が海に帰って居なくなり、菩提寺とは気持ちが切れた形です。浄土宗で開基した自分の墓だけが残ることになりました。
実は、父の葬儀の時に一部分骨をさせてもらい、母と共に埋葬しています。
大きな母の壺の隣に小さな父の骨壷が並んでいます。父と兄の遺志に反することかもしれませんが、これはこれでよかったと思っています。
と・・・思わぬ方向に話が行ってしまいました。さすがに時間が心配で境内には入らず、仕事に向かいました。
話はまた変わりますが・・・西福寺のホームページに「越の秀嶺」という興味深い話が載っていました。響きがよくていい言葉だなと思います。下に引用させていただきました。
【越の秀嶺】
『徳川御三家・御三卿と越前・会津の方が御住職となられた寺のことを秀嶺とよびます。(皇室及び五摂家の方がなられますと門跡とよばれます。)
当山は、徳川家が浄土宗に篤く帰依していたことにも縁るが、福井藩との繋がりが深い寺です。
当山二十一世、見痙杜正誉上人、良和呑榮大和尚は福井藩主結城秀康公の庶子であり、松平忠直公の異母弟にして、西福寺興隆に尽力された大徳であります。
山内には、書院(結城秀康公寄進)・爵金桜(松平忠直公御手植)、また宝物として越前松平家との関係がしのばれる古文書・文化財が多く遺されています。また、現在も徳川歴代将軍の位碑を奉安しています。』