12月16日の出張の結果を持ってお客さんと打ち合わせのため、神田美土代へ向かいます。
神田のスタンドウナギ屋さんで御重を・・・といっても1050円の安さです。一時間早く来すぎた感じで、約束の時間には早いので少し周辺を歩き廻ります。
神保町からお茶の水に抜けて本屋で帰りの新幹線で読むのに適当な本を物色。
司馬遼太郎の「街道をゆく 第18巻 越前の諸道」を購入してお客さんのところに向かいました。
「越前の諸道」は永平寺を敬遠した形で大野の宝慶寺から始まります。宝慶寺は道元を慕って宋から渡日した中国僧、寂円の開基とされ、現在は永平寺に対して、第2道場に位置づけられているお寺なのだそうです。
道元の後を継いだ永平寺の僧達が絢爛華美な伽藍建設により権威を形成し、俗化して行くのに対し、寂円は道元の求道の精神を継承し、只管打坐(ひたすら座禅を行う)を行った人ということらしい。
司馬遼太郎は正にその永平寺の俗化・・・前に信者の混雑に巻き込まれた記憶から永平寺を避けた様です。結局永平寺も訪れるのですが・・・
まだ読み終わっていないのですが、その他にも自分が気になっていたこと・・・山岳信仰、泰澄、白山神社、継体天皇、越前の前史時代などが大胆な推測を交えて語られていて面白いと思います。
全44巻、外国編を覗いても30巻くらいあるのでしょう・・・ちょっとやっかいなものに引っかかってしまいました。まだ読めずに積まれている本が何冊も有る状態なのに・・・
打ち合わせは1時間ほどで終了。今日は自宅に寄れずにそのまま敦賀にとんぼ返りです。
どうせなら、三菱一号館美術館でも覗いて行こうと美土代から丸の内でまでぶらぶらと歩きます。神保町周辺も再開発されていましたが、東京駅周辺もさらなる再開発が進んでいます。
あのセレブ代議士兄弟の弟君が、なぜかこだわった東京郵便局の改造が進んでいました。
同じ方向から見た完成想像図が日本郵便のホームページにでています。流行りの足元に旧ビルを残す形にしています。なにが気に食わなかったのか・・・何故ここだけだったのか・・・単に、西川さんに対する反発だったのか・・・
三菱一号館美術館の展覧会は『カンディンスキーと青騎士展』でした。
カンディンスキーについては抽象画の印象と「ストラスブール美術館展」で見た、点描派的な風景画以外余り知識がありません。
三菱一号館の展覧会の案内の文章をお借りします。
『ミュンヘン市立レンバッハハウス美術館は、20世紀初頭の革新的芸術運動「青騎士」グループの世界的コレクションで知られています。(本展覧会はレンバッハハウス美術館の協力で開催されている)
19世紀末のミュンヘンには、ドイツ美術における最重要拠点として多くの芸術家たちが集っていました。
その中には、モスクワからやってきて、後に「青騎士」グループの中心的人物となるヴァシリー・カンディンスキー(1866-1944年)もいました。
1901年に芸術家集団「ファーランクス」を仲間たちと立ち上げたカンディンスキーは、翌年、画学生として入学したガブリエーレ・ミュンター(1877-1962年)と運命的な出会いをします。
親密な仲となった二人は、オランダ、チュニジア、パリなど各地を歴訪した後、1908年、ミュンヘンに戻って生活をともにするようになります。
1909年、ミュンターとカンディンスキーがムルナウに家を構えると、後に「青騎士」と称される芸術家たち、アレクセイ・ヤウレンスキー、マリアンネ・フォン・ヴェレフキン、アウグスト・マッケ、フランツ・マルクらが集い、活発な芸術討論の場となります。
「青騎士」グループの芸術革新は、1911年、「ミュンヘン新芸術家協会」の展覧会でカンディンスキーの作品《コンポジションⅤ》が拒絶されたことを機に始まりました。
ミュンターやマルクらは、後に「青騎士展」とよばれる独自の展覧会を開催するため協会を脱退します。
1911年末、開催された「第1回青騎士展」は、時代を象徴する衝撃的な出来事として注目されました。彼らの急進的な芸術理念を発表する場として、カンディンスキーとマルクが中心となって夏から進めていた年鑑出版の計画も、翌1912年『青騎士』年鑑として結実します。
こうした「青騎士」グループの活動により、ミュンヘンは国際的芸術アヴァンギャルドの都市として一躍脚光を浴びることとなりました。
こうして、「青騎士」グループが今まさにこれから、という1914年、第1次世界大戦が勃発します。マルクとマッケが若くして戦場に散り、カンディンスキー、ヤウレンスキー、ヴェレフキンがドイツから去って、一夜にしてこの希望に満ちた芸術活動はミュンヘンから失われてしまいました。
グループの離散により一人残ったミュンターは、ナチスドイツが台頭する困難な時代にも仲間たちの作品を守り続け、80歳になった1957年、手元に残っていたきわめて価値の高いカンディンスキーの作品、「青騎士」グループの画家たちの秀作、そして自身の作品をミュンヘン市とレンバッハハウス美術館に寄贈します。』
奥さんがありながら弟子ミュンターと強い絆で結ばれて、芸術の活動に対してお互いに影響し合った二人ですが宗教的な理由から、カンディンスキーは奥さんとは離婚ができず、苦しんだのだそうです。
ミュンターは仲間を失うことになる第一次大戦をきっかけに、カンディンスキーがロシアに帰り、彼と別れることになります。
どういう思いでカンディンスキーと別れ、また別れながらもカンディンスキー達の絵を護り続けたのか興味が湧くところです。
ミュンターはムルナウでカンディンスキーの絵の革新を目の辺りにしますが。自身は抽象には行かずに自分の絵を護り続けたようです。
カンディンスキーの色使いに似た絵で味わいがある絵だと思います。これは展覧会で見た絵ではなく、Wikipedeia で見た絵ですが、いいなと思います。
正直に言うと、本展覧会のポスターになっていて、カンディンスキーの抽象画の転換期となる「印象Ⅲ(コンサート)」は好きな絵なのですが、その後の抽象画は自分はなかなか入り込めないでいます。
絵の価値等はわからないので、それは譲るとして、自分が共感できるものがあるかどうかという点で、理解できないでいます。
平成22年は色々展覧会に行く機会があり、印象派しか知らない状態は脱してきて、「ポスト印象派」も好きな絵ができてきました。
それでもまだ、抽象的な絵には付いて行けないというところです。
外に出て、道路の反対側にでて一号館美術館の写真を撮り、新幹線の駅に向かいました。
街はクリスマスムードですが、今日の打ち合わせの仕事の先行きがどうなるか、心配を抱えながら余り楽しめませんでした。