左義長祭

この間ようやく年を越せたと思ったのに、今度は1月から抜け出せないでいます。

1月15日は気比神宮のどんど焼です。

氣比神宮

土曜に重なったので、昨年一年お世話になった神棚の飾り、事務所の入り口に飾ってあった正月飾りなどを持って出かけます。

なんとなく、どんど焼は成人の日に実施のイメージがあって、ハッピーマンデーの成人式の日に持って行って空振りしたことがありました。

気比神宮は焚き上げは15日と決めているようです。それでも焚き火用の山と御焚き料を納める箱は用意されていたので、お願いして帰りました。

氣比神宮

今日はやはり休みと重なったので、人出が多い様で、ミゾレ混じりの雨が降る中、次から次と車が来て、焚き火に御飾、御守りを投げて行きます。

どんど焼は地方都市で学生していた時に、八幡神社で大がかりな年中行事が行われているので始めて知りました。東京ではどうだったか記憶にありません。

東京から現在の自宅に引っ越して一年経った時だと思いますが、市報を読んでいると農協主催のどんど焼の知らせが記載されていました。

氣比神宮

れて見に行くと、広場にうず高く薪が積まれています。受付でミカンと丸餅をいただき、お飾りを薪の中にもぐりこませます。・・・丸餅の意味がわかりませんでした。

神主さんというか農協の幹部さんというか数人が農協の広場に接した小さい神社でお祓いをした後に、薪に火を着けます。灯油をぶちまけた薪は勢いよく燃え上がります。

なにやら長い竹の棒が何本もでてきて、その先に割れ目があるようで、それを利用して丸餅を挟んでどんど焼の中に差し込みます。

なるほど・・・と娘にも教えながら餅を焼いて食べました。煤臭くておいしいものではありませんでしたが・・・

氣比神宮

どんど焼が下火になる頃、皆が持参してきていた凧が登場して、凧上げ大会が始まります。

状況を知らなかったので眺めるだけでしたが、翌年も参加して、この時は我が家も奴凧を持参しました。我が家の凧は他の凧よりはるかに高く上がって父親の威厳を・・・と言っても娘達が覚えているとは思えませんが・・・

話をもどします・・・神社にお参りを済ませ、さて、そのまま帰るのもなんだし、武生にできたという大型のニトリで、部屋改造の道具でも探しに行こうと・・・

氣比神宮

新しいニトリは店は大きかったけど、インテリア関係で欲しくなるものもなく、書類整理用のプラスチックケースを購入しただけで目的は果たせませんでした。

もう少し北上してミツワに・・・と思いましたが、面倒くさくなり、敦賀に戻ります。

そう言えば、武生、今立の街の中を前から歩きたいと思っていたなと・・・とりあえず武生駅に行き、駅前のビルにある案内所で遊歩コースを説明してもらいます。

行きたい街を事前に調査することは、まずなくて、観光案内所で案内図と説明をおお聞きして、にわか勉強します。

地元で頂く地図は、地元の方が見てもらいたいところ満載ですから、聞きかじりの情報を集めた市販の旅行雑誌より、はるかに情報量は多いのではと思います。

武生市内

事前勉強して、さらに観光案内所に行けばいいだろうって?いつもそう思うのですが・・・思いつきで出かけるもので後悔ばかりです。

武生市内

雨がひどくなってきたので、全部は廻れそうもありませんが、案内所のお勧めに従い、寺町と蔵の辻の辺りを歩くことにして、街中の駐車場に向かいました。

本を読んでいて、前田利家が城をかまえた府中という場所はどこなんだろうと漠然と思いつつ、府中が武生を指すというのは大分後になって気が付きました。

井上歯科医院

註:明治37年に建てられた木造2階建ての洋風建築。外壁全面を石積に似せたモルタル塗りで仕上げており、防火性能を重視した建物。国の登録文化財指定。(越前まちなか博物館)

司馬遼太郎の街道を行くシリーズ「越前の諸道」の文章をお借りします。

「武生のまちに入った。越前にあっては武生が古都というべき地である。上代、ここに越前国の国府がおかれ、国分寺などもあった。中世までは府中と呼ばれていた。

江戸期では、福井藩の老臣本多氏が四万五千石をもらって、武生に居館を築き、城下町の秩序をつくった。」

總社大神宮

司馬遼太郎はさらに武生の「府中鎌」から「日野山→火の山」と「丹生郡→赤土(にふ)=砂鉄」と製鉄の歴史を想起して話を展開して行きます。

この他に、「越前焼き」についても陶芸の知識と豊かな発想で、「古越前」の「歴史」を語ります。その博識と物語の創造力はすごいと思います。

自分の歴史への「のめり込み」のきっかけは司馬の「国盗り物語」であったことを改めて思い出します。

最初に總社大神宮にたどり着きます。左に「左義長祭」の文字が・・・

左義長祭

左義長はどんど焼と同義で一般的には小正月(1月15日)にお飾りを焼く風習を言うものだそうです。

左義長は元々は三毬杖(さぎちょう)であったと・・・

宮中に毬杖(ぎっちょう)という棒でホッケーの様に毬を撃ち合う遊びがあり、その毬杖を3本束ねたものに短歌などを結び付け、陰陽師が謡いながら火にくべて吉凶と占ったということが起源とされるそうです。(Wikipedia)

Wikipedeiaにはさらに、火事の多い江戸では防火の観点で、左義長は禁止され、風習が廃れたと記載がありました。東京の人間が知らなかったのは当然なのかもしれません。

総社神宮

今日は実は2月27日ですが、勝山の「左義長祭」の日です。今回こそは行こうと思っていましたが昨日の野坂山の疲れがとれず、溜まりゆく写真に気も重く、断念しました。

総社神宮

お参りの後、参道にあるヨコカワ分店でボルガライスをいただきます。オムライスの上に肉の薄いトンカツが乗って、その上にドミグラスソースがかかります。

ボルガル

總社大神宮から向かいの国分寺を経て京町通りを歩きます。

引接寺の傍らに丈生幼稚園があります。越前市の公式サイトに「越前まちなか博物館」というコーナーがあり、歴史的建造物を紹介しています。

ただし、後の熊川邸で断られたように、多くの建物は中に入ることはできないようです。

丈生幼稚園

註:明治32年頃福井市に建築された福井県警察部庁舎を、大正13年引接寺に移築改修し幼稚園として活用。和風と洋風が混在した明治後期の建築。国の登録文化財指定。
(越前まちなか博物館)

引接寺は1488年、長野善光寺からこの地を訪れた真盛上人開創の天台宗真盛派別格本山(本山は大津市の西教寺)。

引接寺.

一乗谷朝倉貞景は安養寺において真盛に説法を受け帰依し、一乗谷に天台宗真盛派が栄えることになる。

引接寺.

一乗谷に数多く残る笏谷石(しゃくだにいし)による石仏群は真盛派により広められたもので、この引接寺にもあるそうですが、この時には判りませんでしたし、この積雪とみぞれ混じりの雨で探す気にもならなかったと思いますが・・・

引接寺.

レンズが雨で濡れてしまい、拭っても拭っても、滴が消えません。左に小さく見える立像が真盛上人の像です。

引接寺.

傍らに真盛上人の教え「戒称」が掲示されていました。

引接寺

引接寺を出て、感じのいい京町の小路が連なります。

ひどくなる雨の中でたどり着いた熊川邸は中に入れてもらうことは出来ないとのこと、博物館という標示は外観だけ確認するということらしい。

民家として使用されているので、まあ当然なのかもしれないけど、ちょっと「まちなか博物館」の名前が寂しい気がします。

熊川邸の先にある龍泉寺は1368年通幻寂霊の開基による曹洞宗のお寺で本多家の菩提寺です。越前市ホームページの生涯学習のコーナーに歴史の紹介があります。

「本多富正と府中」

「元亀3年(1572)~慶安2年(1649) 78歳 没  三河国(愛知県岡崎市)に生れ、15歳の時より徳川家康の次男秀康に仕え、慶長6年(1601)、秀康の越前国(68万石)への入国とともにこれに従い、附家老として府中(武生)領3万9千石を治める。

龍泉寺

富正は、徳川家康、秀忠、家光三代の信任が厚く大名並の待遇を受け、福井藩からは府中領内の自治権を与えられるなど、藩同様の扱いを受けました。

龍泉寺

当時、府中は戦乱(織田信長の朝倉攻めや一向一揆鎮圧)のため、荒廃していました。富正は、日野川の治水工事や町用水の改修を行い、街並を整備しました。

龍泉寺

産業面でも保護奨励策をとり、打刃物業・織物業等の発展に努力し、現在の武生の基礎を築いた人物です。

龍泉寺

また、福井藩の筆頭家老として藩全体の政治・経済の発展に手腕を振るいました。 」

武生鎌、包丁を広めた山内長四郎の碑

ますますミゾレがひどくなります。

また何時か、ゆっくり歩きにこようとだんだん速足になります。

越前打刃物の祖とされる千代鶴国安を祀る千代鶴神社も通り過ぎます。

せめて蔵の辻だけでも見て帰ろうと善光寺通りを歩いていると正覚寺にたどり着きます。

越前市のホームページに下記の説明がありました。

正覚寺

「南北朝期に越前守護斯波高経がここに新善光寺城を築き、1338年新田義貞に攻められ消失。

その城跡に1366年、良如は、乱で戦死した数千人の霊を弔うため浄土宗の寺院正覚寺を建立した。

正覚寺

また、この山門は江戸時代の本多家の居城・府中城の表門を移築したものです。」

正覚寺

ようやく蔵の辻 に到着。江戸時代の蔵が並んでいた地域で蔵を利用した色々なお店が整備されているようです。開いていないお店もあるせいか、天気のせいか人の気配はあまりありませんでした。

蔵の辻

こういう街並みは好きなので、また天気が良い時に歩いてみたいと思います。

蔵の辻

喫茶室があったので、暖かいカフェオレで一息を・・・水仙祭りが始まったので、今日は団体が来たりして大変だったとのことでした。

蔵の辻

自分が来た時間が遅いせいもあるのでしょうか。前記したように他の観光客には会いませんでした。

蔵の辻

三国も中途半端、武生も中途半端に終わります。三国は7割、武生は4割制覇というところでしょうか・・・先の長いことで・・・

帰りの河野の道の駅でトイレを借りようと入ると太陽が沈みかけているところでした。

蔵の辻

敦賀半島の向こうに陽が沈んでいきます。

敦賀半島に沈んでいく太陽

敦賀湾と野坂山が暗くなりつつありました。

敦賀の街と野坂
くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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