7回目の12年

敦賀半島

自分の生まれた年、昭和23年(1948年)の干支は戊子(つちのえね)、十干十二支をそれぞれ組み合わせた干支の組み合わせは60通り、2008年に干支の組み合わせが一廻りして、再度戊子となり、還暦を迎えました。

自分のではなく、奥さんの古希祝いのケーキです

今年は庚子(かのえね)、還暦からさらに12支を過ごしたことになります。

あまりにも短い12年の実感から、その間、俺はなにをしたんだ、と言う思いがあります。

ゴールデンゲートブリッジ

50歳代の中盤から仕事でカリフォルニ州の田舎町ユカヤとの往復が始まり、あまり自宅に落ち着けない生活が続きました。

アメリカでの仕事がなんとか形がつき、ようやく解放されて帰国し、日常生活が戻ってくるかとホッとしたのはわずかの間でした。

pier 33

違う仕事がしたいとの期待も空しく、アメリカの仕事の継続で、納めた装置の試運転にアサインされて福井県敦賀市に出張を繰り返すことになり、自宅がまたしばらく遠のくことになりました。

しばらくは短期出張扱いでしたが、トラブルだらけで、プロジェクトがどんどん長引いて、そのまま長期の単身赴任となりました。

アルカトラス

2年の月日が過ぎて、なんとか検収を得て、敦賀撤収の際、少しだけ、ご褒美やと、荷物一式を車にまとめて、かねてより憧れの奥飛騨温泉へ出向きました。

2泊して、新入社員の時以来30年振りの新穂高ロープウェイに乗り、つい色気を出して、西穂の尾根まで歩いて、昔、さらに上高地まで歩いたんだなと思い出にふけりました。

アルカトラス
アルカトラス

新穂高温泉を満喫。さらに中央道を登って、天竜下り、中央アルプス駒ヶ岳ロープウェイなどとはしゃぎながら帰宅しました。

全てが終わったと安心していたのは大甘で、客先への出向話が舞い込み、尻拭いはまだまだ終わってないぞと。「副部長待遇」って、全くの名目だけの肩書きをもらってのつらい生活が始まることになりました。

2006年3月21日野坂初登頂  春分の日だったけど雪が降ってる・・・

気持ち的にメタ糞つらい2年間でしたが、幹部独身寮仲間のお偉いさんに連れられて、残雪多い野坂岳登山を経験、その後、四季を通じて、野坂を訪れる楽しみを教えていただいことは大きな収穫でした。

雪に滑る靴で登りに苦戦、落ち込んでヘロヘロの状態で見た二ノ岳の尾根道に咲いていたマンサクの花が忘れられません。

雪の野坂初登山で見たマンサク

出向満了後、会社の現場事務所所長を継ぐ、ということになり、福井県を離れる事が出来ぬまま還暦を迎えることになります。

転職した時に40歳を超えていたため、都合19年間の勤務でしたが、その前に、派遣あるいは業務委託の形で5年以上、同じ仕事をしていましたので、実感はもっと長い気持ちがあります。

野坂岳の冬の写真にBruce Cockburn 「High winds White Sky」を併せました。

転職の際に人事に、年齢上、20年間の勤務ができないので、社内年金制度の対象外になる、と。そんなことがあるのかと、そんなことも知らずに転職するかと言われそうですが・・・転職時期が一年遅かったということのようです。

まあ、色んな意味で、大学入試浪人2年間の寄り道で余分な歳をくったツケが廻ってきたということもあるのかも知れない。

野坂岳

退職する方の会社では当時合併を重ねて人減らしに躍起になっている時で、特別退職制で2倍程度の退職金という話は聞いていました。

そういう美味しい時期は失しており、転職を望んで辞める奴が居てよかったとばかり、割り増しには縁がありませんでした。

九頭竜湖

と、こんなこと考えたのは退職に際して、人事にいた大学の先輩に挨拶に行った時に、「俺なりに特別退職扱いしてもらえるよう動いたんだけどダメだった、勘弁してくれ」と打ち明けられて、初めて気がついたことではあったのですが。

あちらもこちらも、要するに俺は損な役回りな人生なのよと嘆きつつ、根が天然であまり深刻に考えることはありませんでした。

竜双の滝

前述の通り、敦賀にいたまま延長雇用となりましたが、年金受給年齢の推移の移行期で65歳ではなく64歳で2枚目の退職辞令をもらいます。

そのまま仕事は継続ということで株式会社「行人舎」を設立一人親方の社長自らを敦賀に派遣する形となりました。

東尋坊

行人舎は出身会社ではなく子会社と業務契約、現場事務所所長として、都合4年半を過ごします。

子会社の最初の契約の打合せに赴いたときに、担当の1歳年下の取締役に「俺はあんたを軽蔑する」と吐き捨てられます。

河野海岸の落日

意味がわからなかったけど「65歳まで働けるのに、金を目当てに1年早く退職して会社を設立したんだろうと」いうことのようでした・・・

おまえな、年金受給年齢推移のはざまで俺たちは64歳で延長雇用がおわるんだよ、ふざけるな、とこれは心の内。

積雪の夜叉が池

おまけに嫌がらせではないのだろうけど、契約が先延ばしになり、契約できないまま、アメリカ出張に行かざるを得なくなります。

収入はないは、出張の扱いの規定もわからぬはのままに、カリフォルニアで不安の一週間を過ごしたのを覚えています。

味真野小学校校庭

最初は嫌な思いをして、さらに色々なことはありましたが、敦賀において、それなりの貢献は果たすことができ、まあ満足だったのかと思います。

最後の1年、またまた厳しい契約を押しつけられ、赤字で、税理士との契約を維持できず、独りで経理を見るはめになりましたが、まあ、それも色々な経験が出来たということで楽しい60歳代だったなと思います。

一乗谷朝倉邸跡

さて、もうすぐ突入する70歳代をどう過ごそうかと。

年齢制限がなく、通信教育でも取得できるということで司書の資格取得を検討しました。空調の効いた図書館で本に関わる仕事をする環境って最高じゃないかというところです。

就職できなくても資格をとっておくことはいいかもしれないと。

平泉寺

講座開設している大学の説明会に参加し、可能性は見いだしましたが、かなりハードな1年を過ごすことになりそうで、踏み出す勇気がとうとうでませんでした。

いつも満たされない思いをだいていても、それなりにお前は頑張ってきたんだぞ、老い先短い身で、勉強で1年を過ごすより、面白おかしく過ごせ、と悪魔のささやきに負けたわけです。。

明通寺金堂

敦賀の単身赴任で自分に残ったものと言えば、カメラ、寺社巡り、仏像との出会い、建築物、絵画の美しさへの目覚め、思い切り興味本位の野山と街歩きというところでしょうか。

10年前に還暦記念として、フルサイズ一眼レフ、憧れのEOS 5Dをあきらめて6Dと24-100mm、100-400mm、12-24mmとレンズを揃えました。

若狭神宮寺

400mmは余りにも重く、レンズ交換に手間取るため、人が一緒だと迷惑をかけることが分かってきて、普段使いの28-300mmを後に追加します。

今、花や虫を対象とすることが多くなってきて、マクロレンズの必要性を強く感じています。

丸岡城址

とりあえず、単身赴任で出会ったカメラを持っての徘徊の趣味は継続しよう。イベントに参加するのもよし、飽きたらなければ自分でコース企画をしていこうと考えました。

ホタルとセミの脱皮の観察会をきっかけに地元の自然同好会を知り、本佐倉城跡を中心とした酒々井歩きに初めて参加して驚きます。

若狭姫神社

歩き出した途端に、目に付く雑草や、花、虫を前にして、話がはじけとび、全ての名前が分かるのです。明確にならないものもありますが、きっと何々の仲間だくらいの情報が入ります。

メモを取りまくりますが、帰って整理しようとして落ち込みます。あまりにも字が汚くて、てめえの字がてめえで読めないのです。

本佐倉城跡

その後、正式に会に入会して、さらにカメラを持っているからという理由だけで写真担当となってから、この字のきたなさでは、らちがあかん、とボイスレコーダーを入手して、名前を聞いたら、記録しておくようになりました。

今度は滑舌が悪くて聞き取れない場合があって困っていますが・・・

クサナギオゴケ

その後、同好会の運営委員を命じられ、どちらかというと、自然に対する知識のない自分のできることとして、PC使っての業務効率化などの事務方にこの2年ほど時間を費やして来ました。

名簿システム、宛名印刷方法の改善、年寄り向けネット操作法のマニュアル作成などなど・・・一番時間をかけたのが、ブログに毛の生えた程度のホームページの全面改訂でした。

たろやまの郷

思いつくままに列挙すると、以下の様な作業があったでしょうか。

・改革案原案の作成、ホームページ担当者へ改訂内容を記した初歩操作のマニュアル作成と説明

・結局、1人で始めた全体構成の見直し作業

足立区生物園

・Googleカレンダーを導入した同好会予定表の設置

・従来、内容報告が為されていなかった各種活動について、新たに報告書様式を作成して、内容が分かる限りの活動報告を作成。

たろやまの郷

・主要活動である自然観察会の報告書、記録だけは残っていたのですが、区切りもなく、文字が一面にずらずら連なる報告で、なんとフォントもまちまちだったのですが、ホームページ開設の6年前まで遡って。全ての記事を見直し、文章の区切りが分かりやすいように段落を入れ、合間に写真を配置、当然フォントも統一しました。

・全ての写真がPCでは見ることができるけど、スマホではまともに見ることができない形式になっていたのを全て、スマホでも、PCでも見やすい表示形式に変更し、全ての写真にタイトルを付した。

総合公園

・せっかく作成されていながら非表示になって読めなくなっていた初期の観察記録を呼び起こし、全ての報告を時系列で検索し、アクセスできるようにインデックスを作成した

などなど、昼も夜もかかりっきりで4ヶ月ほど費やしたと思います。

中央公園

事務局として色々会のためにやれることはあるし、このまま、自分の生活の一部として過ごしていくことでいいかと一時は考えていたのですが、肝心の運営委員会のあり方に徐々に嫌気がさしてきました。

おそらく、その自分が感ずる運営委委員のあり方の問題点について各委は問題視しておらず、独りであがいているだけなのでしょう。

クマガイソウ

今までの慣習ありきで、慣れてきたことを変えたくない、いささか指導者意識が強すぎて、プライドが先行、他人の意見は受け入れ難い、など自分には納得できないことが多く黙っていられなくなってきた、と言うところでした。

波風たてないようにしよう、となるべく抑えていたのですが・・・考えて見ると、おれはやりたくてやってるわけではないのだから、言いたいこと言って、受け入れられないのなら辞めるということでいいのではないのかと切り替えます。

レンゲショウマ

1年前に引き継ぐ予定だった会計システム、一見して改良点山積みで、でも、引き受けた後に変えて行くと、何も変えたくない人達の中で、抵抗が大きいだろう。

現会計を巻き込んで今年から徐々に変えて行こうと願ったのですが、理解あると思った現会計が最もなにも変えたくない人だったことがわかり思惑が外れます。

神田明神随神門

このまま、引き継いでバカだのチョンだのけなされながら、独りで頑張るのは改訂作業の力仕事の体力だけでなく、精神的にかなりつらくなるなと考えました。

恐る恐る、会計引き継ぎについては辞退したい、ついてはお約束を破ったことになるので、運営委自体を辞めさせていただきたいと申し入れました。

たろやまの郷

申し入れに対し、「会の高齢化もあり、変えて行かねばならないと思っている、これから会の改革についての話し合いを進めて行きたいのでそれに参画してほしい」と言われます。

そういうことであれば協力することやぶさかでなしと、留まったのですが、その後、ただの一度も話し合いもないままで、ある日気がついて、もういいのかなと思い至ったというとこです。

鹿放ヶ丘どんど焼き

会のための作業に時間を取られていて、ふと振り返ると、このブログ、更新頻度は3ヶ月に一度程度になり、全体のメンテナンスも数年していないこと、気になっていました。

少し心に余裕が出来た感じで、全体を見回しつつメンテナンスを始めたところです。また、faecbookでの呟きに逃げてしまったいるところもあって、をあらためて、まとまったブログを続けるようにしようと。

深大寺

同好会活動に合わせて里山歩きに比重が傾きはじめていたような気もしますが、同好会から手離れしたこともあり、72歳を迎えたことをきっかけとして、棚上げになっていた街歩きを再開し、温めていた徘徊計画をボチボチこなしていこうと考えています。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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