槇尾山西明寺

神護寺のお詣りを終え、西明寺に向かいますが、神護寺と成田山の関係について、確認するのを忘れていました。

まあ、成田山に関連する物が全く無かったと言うことなのでしょう。

成田山の縁起によると、940年(天慶3年)、朱雀天皇の命により、平将門の乱を平定するために、寛朝大僧正は空海作の不動明王像を擁して東国に下ります。

寛朝大僧正は、成田の地に弘法大師の彫られた不動明王像を奉安し、御護摩を焚いて、戦乱が鎮まるようにと祈願した。

将門が敗れ、寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ、御尊像が磐石のごとく動かず、この地に留まるよう告げ、成田山新勝寺が開山された、というものです。

弘法大師の不動明王は神護寺に居られたもので、不確実な情報ですが、成田山は現在でも神護寺に貸与料を払っている、という話もありました。

Wikipediaには護摩を行った地を公津ヶ原との記載があります。

この後、12月末に、公津の杜近くの宗吾霊堂(東勝寺)から、麻賀多神社、甚兵衛の渡しまでの「宗吾ロード」を辿り、下総松崎駅まで歩いたのですが…

改めて確認すると印旛沼に沿った「宗吾ロード」を外縁として、成田ニュータウン、新勝寺当たりまでの広大な地域に「公津ヶ原古墳群」が広がっていて、いささか面白そうな匂いを感じているところです。とまあ、それはさておき・・・・

神護寺の参道を降りて、清滝川沿いに西明寺に向かいます。

間もなく、赤い橋が見えてきて、それが西明寺の門前に連なる入り口に連なっていました。

紅葉で覆われた赤い橋は恰好の撮影ポイントというところで、韓国のグループが独占していてチャンスが巡ってこず、諦めて受付をして、先に進みます。

以下は京都観光Navi「西明寺」の説明をお借りします。

西明寺は槙尾(まきお)山と号し、真言宗大覚寺派の準別格本山。832(天長9)年、空海の弟子、智泉が開基。鎌倉時代建治年中(1275~1277)和泉国槙尾山の自証上人が中興。

その後衰微し、現在の堂舎は1699年(元禄12年)、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院と伝える。

槙尾を、上流の栂尾、下流の高雄とあわせ世に三尾と称し、いづれも紅葉の名所として知られる。って、高尾でなく高雄で何故三尾かい、とちょっと突っ込みたくなりますが、

西明寺の紅葉を楽しんだ後に、対岸の橋のたもとにあるお茶屋さんで、渓流を眺めながらコーヒーをいただきました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA