雪の白山平泉寺

勝山に入り、以前から拝観したかった「雪の平泉寺」に向います。大雪になってきました。

平泉寺入り口に以前には無かった、白山平泉寺歴史探遊館「まほろば」ができています。: 「国史跡白山平泉寺旧境内

トイレを借りに入ってみると、白山信仰および平泉寺の発掘の状況などの説明があり、面白そうです。

雪の参道と格闘して疲れ果てた帰りがけに、お借りした傘を返すついでに「まほろば」の中をゆっくり見せていただきました。

劇場スぺースの椅子にどっかと腰掛けて休憩しつつ、白山の四季、史跡の発掘状況などのビデオを3本ほど鑑賞させていただきました。

平泉寺では、一乗谷と同様に、広い範囲で発掘が開始されているようで、興味を惹かれます。館員の方に訊くと、勝山市が発掘の主体になっているということ、勝山市、やるな、という感じです。

奥越の山深い勝山は、県立恐竜博物館、北谷発掘現場および平泉寺、国史跡平泉寺旧境内と自分にとっては強力な面白い売り物を持っています。

それに加えて、夕方に見て廻った、左義長まつりの歴史を感じさせるお祭りを市民全体が盛り上げる熱い熱意を目の当たりに見て、ますます、勝山の面白さを実感したカメラ行脚でした。

「まほろば」の受付に「傘貸します」とあり、有り難くお借りします。

少しの雪なら、コートだけで、歩いてしまいますが、雪の量が半端でなくなり、助かります。受付の女性が、「今日はソリ大会やってますよ。」と・・・

何を訳のわからないことを言ってるんだか・・・

なんと、鳥居からの階段の斜面を利用した立派なソリ用のゲレンデができていました。ジャンプ台まである力作です。

子供達に加えて、大人たちも大喜びで、はしゃぎまわっていました。

恒例の行事なのかと思ったら、今年初めての企画なのだそうです。帰る時には、竹スキーで滑った距離を競う競技があったらしくて、表彰式も行われていました。

「やってみませんか?」というお誘いを遠慮して境内に入って行くと、子供達の歓声を吸収してしまうように雪が深々と降り続く深い樹々に囲まれた平泉寺がありました。

201302240707雪が深く、社務所にある旧玄成院庭園は閉鎖されていましたし、メインの参道しか歩けず、拝殿から本社にたどり着いて、お参りして、引き返すのがやっとというところでした。

本社からさらに楠正成の墓塔にはとてもたどり着けそうもなく、引き返します。

「蘇る中世都市″白山平泉寺″」、Wikipedia 、司馬遼太郎「街道を行く」などを参考にして平泉寺を振り返っておきます。

白山は高さ2702m、御前峰、大汝、別山の白山三山からなり、主峰御前峰に白山比咩神社の白山本宮が祀られている。

養老元年(717年)、泰澄が白山の主峰、御前峰で瞑想していた時に、本地仏十一面観音の垂迹(すいじゃく)である九頭龍王が出現して、自らを伊弉冉尊(いざなみのみこと)の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗った。

「本地垂迹」・・複雑で正直言ってよくわからない・・・司馬遼太郎の表現を借りると「やがて、平安期の初頭には日本独自の「神仏習合」の思想が確立し、有力な神々は「権現」という「仏まがい」のものになってゆく。」

さらに続けて、「銀座のバーの屋号だけがフランス語であったりすることと、心理的には一つの根であるかと思われる。」・・・とくると、ちょっとまた判り難くなります。

古来、日本の伝統であった八百万の神々を当時主流となったインド渡来の仏教の概念を持って捕えようとするということなのかと・・・

本地とする十一面観音=仏教は仏教思想であると同時に、インド文明(銀座でいうフランスへのあこがれ)であり、本地が古来より、親しみをもった神の姿として垂迹(化身となる)して、身近に現れている。ということなのでしょう。

ここでは、さらに、単純な権現様でなく権現様のバックとなる「神々の歴史」が絡んできて、複雑になっています。

「宗教画」は聖書を理解しないとわからないということで聖書を読む気が起きないため、リジェクトしています。

でも、日本の歴史、宗教を語ろうとする時に、「古事記」、「書紀」を知らないでは始まらないのではないのだろうと思います。

未だに、仏教に対して、回答を引き出せないでいる怠け者の前に幅広く、奥深い精神、思索の空間が無限に続いているような気がして、暗澹たる気持ちになります・・・ということは置いといて。

白山ではさらに別山に聖観音菩薩の垂迹である大行事権現が伊弉冉尊の神務輔佐として、大汝峰では阿弥陀如来を本地とした大己貴命(おおなむちのみ)こと大汝権現が伊弉冊尊の神務輔弼として顕れます。

これら三神(白山妙理権現、大行事権現、大汝権現)を併せて白山三所権現と称します。

白山は、越前国・加賀国・美濃国の三国にまたがっており、三国それぞれから、白山に登る道がつくられました。この道を「白山禅定道」といいます。

そしてこれらの道の入り口には馬場があり、それぞれお寺がつくられました。越前国は平泉寺、加賀国は白山本宮(白山比咩神社)、美濃国は長滝寺です。

平泉寺は応徳元年(1084)、比叡山延暦寺の末寺になりました。延暦寺は、当時日本で最も大きな力を持っていたお寺で、全国に影響力を持っていました。

「街道をゆく」では当時、寺社が荘園を持つようになり、その権益を維持するために、権勢を誇った、延暦寺の力を利用したという側面を書いています。

鎌倉期に延暦寺が力を失っても、平泉寺は自分達の勢力維持のためには、裏切りも辞さない方法で勝ち組の権力者を利用して、生き残り、勢力を伸ばし続けます。

大きく成長した平泉寺は、領地9万石、僧兵8,000人を擁し、48の神社、36のお堂、6,000の坊院があったといわれています。

戦国時代になると、越前でも朝倉氏と斯波氏・甲斐氏が対立し、勝ち抜いた朝倉氏は、文明13年(1481)越前を統一します。

平泉寺も朝倉氏の支配下に入り、朝倉氏の祈願所となりました。

天正元年(1573)、朝倉義景は織田信長に追われ、平泉寺の力を借りて、信長に対抗しようとします。

平泉寺は大野を支配していた朝倉景鏡と組んで、義景を裏切り、義景は、大野で自害します。

権勢を誇った、平泉寺は、しかしながら、翌年の天正2年(1574年)、蓮如から始まし、庶民に急激にひろまった真宗の一向一揆と対立し、焼失します。

平成元年から発掘調査が始まりました。その結果、平泉寺の最も栄えた頃の境内の大きさは、今の平泉寺の村を含む東西1.2㎞、南北1㎞の範囲だと言うことが分かりました。

かつての平泉寺の境内は、今の平泉寺白山神社だけでないことが分かったので、国史跡(重要文化財)を200ヘクタールに拡大しました。

そり大会の表彰式が行われていました。
そり大会の表彰式が行われていました。

平泉寺のような大規模なお寺の跡は、日本全国を見てもほとんどなく、石畳道や石垣を作る技術もかなり高いレベルにあったようです。

南谷発掘現場への案内標識がありましたが、雪深く、諦めて市内に向おうと。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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