覚雲山 浄栄寺

5月4日は伯父の三回忌。

2年前の49日の時に、兄弟で道に迷い、皆さんに大分御迷惑をかけてしまいました。自分は「曙橋」で降りて迷ったのですが、兄はお寺を挟んで反対方向の「牛込柳町」で降りて、やはり迷子になり、似た者兄弟やっていました。


今、思うと、昨年亡くなった兄は帰らぬ病に冒され、既に覚悟を決めており、昔、世話になった伯父に挨拶しておきたいと言うところだったのだと思います。

今日は奥さんと一緒に向いますが、再び迷って遅れるのは許されないなと、ネットで調べます。

お寺の名前は浄栄寺ホームページが造られており、開くと、浄土真宗 覚雲山 浄栄寺 元和2年(1616年)創建、「酒井抱一(ほういつ)、太田南畝(蜀山人)ゆかりの寺」とあります。

酒井抱一は江戸時代後期に、尾形光琳に傾倒し、自身の長けた俳諧の詩情を盛り込んだ「江戸琳派を確立した人ということです。

酒井抱一 月に秋草図屏風(Wikipedia)

酒井抱一は、1761(宝暦11)年に徳川家の重臣・酒井雅楽頭(うたのかみ)家の神田小川町の姫路藩別邸に次男(第4子)として生れます。

祖父に姫路藩主忠恭、兄に藩主を継ぐ忠以をもつという名門の御曹司、抱一は、藩主忠以が宗雅の号で茶人として活躍するように、文芸を重んじる酒井家の家風を最も強く受けます。

姫路市立美術館 神戸新聞「生誕250周年記念展「酒井抱一と江戸琳派の全貌」

江戸市井にある家督継承者でない境遇の多くの武士が遊興に走るのに対し、抱一はその情熱を俳諧、狂歌に向けて行きます。

絵については当初狩野派の手ほどきを受け、さらに歌川豊春に浮世絵を習い、師匠の模写、馴染みの遊女の絵を残しています。

浄栄寺所蔵不二山(富士昇龍図)レプリカ 本物は江戸東京博物館へ寄贈

※参照:東京デジタル博物館

兄の死後、37歳で西本願寺法主文如の下で出家、酒井家から離れ、自由な立場に身を置きます。Wikipedia には家督相続の複雑さ、当時吹き荒れた寛政の改革の自由の無さに嫌気がさしたか?とあります。

この頃から、宗達、光琳が京都で築いた琳派様式に魅了された抱一は、その伝統を強く意識しながら、江戸後期らしい新たな好みや洗練度を加えた新様式を確立していきます。

風流で典雅な花鳥画を得意としながらも、多くの文化人との関わりの中で風俗画や仏画、吉祥画などさまざまな主題や作風に柔軟に対応した独自の「江戸琳派」と呼ばれる世界を構築します。

昨年姫路市立美術館、千葉市立美術館などで「生誕250周年記念展「酒井抱一と江戸琳派の全貌」が開催されていたようです。姫路の主催である神戸新聞のサイトを参考にさせていただきました。

甘露門 新宿区指定有形文化財※

抱一は根岸に構えた隠居所兼工房である雨華庵(うげあん)で製作を続け、1829年、同所で没します。

浄栄寺とのかかわりとしては、浄栄寺7世性梅、8世壽徴が江戸の市井文化のよき理解者であったようで、抱一や、後述の太田南畝を始めとした多くの文人が浄栄寺に集まっていたことが記録に残されています。(浄栄寺ホームページ)

壽徴は後述の大田南畝の門下となり、雪仙と称し、自分の次男を抱一の養子に出します。次男は酒井鶯蒲を称し、雨華庵を継いで、画家として名をなします。

その後も雨華庵の当主は浄栄寺ゆかりの人間が続きます。

一方、大田 南畝(おおた なんぽ)は1749年(寛延2年)、牛込生まれの、天明期(1781年〜1788年)を代表する文人、狂歌師。

漢詩文、洒落本、狂詩、狂歌などをよくし、膨大な量の随筆を残した。

勘定所幕吏として支配勘定にまで上り詰めたが、一方、余技で狂歌集や洒落本などを著し、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。

別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚先生と称した。太田南畝は酒井抱一とも知己であり、抱一の美人画に狂詩を讃したものが残っているのだそうです。

大田南畝は頻繁に浄栄寺を訪れていたようで、浄栄寺をうたった詩が幾つかあること、さらに太田南畝と浄栄寺の関連を示す文書が残されていて、酒井抱一を含めた彼らの親密な交遊関係を垣間見ることができます。

南畝は吉原の遊女を請け出し、妾(賎)としますが、お賎は浄栄寺で加療中に亡くなり、命日を浄栄寺で行い、多くの文人たちが集まったとの記載があります。

賎の墓所は浄栄寺ではないようですが・・・

と、大分入れ込んでしまいましたが、まだまだ行けていないところの多い「わかさはいかい」ではありますが、いつの日か、カメラ担いで、生まれた地の東京歩きをしてみたい・・・その気持ちが膨らんできました。

「はいかい」ならぬ「はいはい」にならないうちに・・・
ようやく5月4日の話に戻ります。

奥さんと余裕をもって出かけた、三回忌でしたが、駅に行くと、人身事故で電車が動いていません。

お婿さんは車で仕事に行くとのこと。一瞬、便乗しようかと思いましたが、やはり計算のできる電車がいいなと思い直し、娘に動いている電車の駅まで送ってもらいます。

大回りすることにより、ゆうゆうと時間は過ぎて行きます。「これはぎりぎりか、過ぎてしまうなと」焦りつつ電車に乗っていると、到着30分前くらいに、従姉から電話が入ります。「道判る?」って・・・

定刻を5分過ぎくらいに到着。すでに法事は始まっていました。

本当に迷惑をかけてばかりで申し訳ない気持ちでしたが、それにしても、まあどんぴしゃりで事故が起きたりするものよとあきれてしまいました。


※浄栄寺の山門「甘露門」

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新宿区の指定・登録文化財と地域文化財

「浄栄寺は市谷薬王寺町に所在する浄土真宗の寺院で、江戸城外堀普請に伴い当地に移転してきました。

現存する浄栄寺の山門「甘露門」は、扁額に安永7年(1778)の年紀が記されていることや、建築装飾の編年から、江戸時代後期に建築されたと推定されます。

甘露門

これは正面一間の薬医門で、切妻造・桟瓦葺・二た軒の構造となっています。柱や梁の材が太く、屋根は大振りで、重厚な門構えをしています。

女梁や笈形には彫物がありますが、全体的に過剰な装飾はなく、江戸時代中・後期の建築意匠の一般的な特徴をもっています。

「甘露門」という名称は、山門の扁額に書かれてあるものです。浄栄寺と縁の深い江戸時代後期の文人大田南畝(1749〜1823)は、この寺を「甘露門」と称して、度々会合を催していました。

山門は、浄栄寺を象徴するものとして、文人の間に知られていたといえます。

区内では江戸時代の寺社建築遺構は希少であり、かつ浄栄寺が文人のサロンとしても機能したという点からも、同寺を象徴する山門「甘露門」は、歴史的・文化的に重要な建造物です。 」

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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