定廣院笏谷石石仏群

3月4日(日)、久しぶりにどこかに行こうと。

a120304031
定広院墓地笏谷石石仏群・・・ようやくたどり着きました。

引きこもり状態を続けている「出かけたくない病」が顔をだして、悩みますが、ようやく昼過ぎに本日のルート決定。

杉箸の又八庵で蕎麦を食べて、雪の池の河内を歩いて今庄の街の写真を撮り、365 スキー場で温泉に入ってこようと。山歩きを避けてちょっと寂しいコースです。

決断の遅さを嘲笑うように、雨が強く降り始めました。

a120304006

刀根に向って杉箸に曲がると、敦賀市内と異なり、まだ雪国状態でした。又八庵の駐車場には結構車が停まっています。中に入ると3組のお客さんがいました。

辛み大根の又八そばの大盛と赤カブラの甘酢漬け、カマスの塩焼きを注文。

女将さん「お客さん、敦賀の人だよね。前に来たことあるね。」と、覚えていてくれました。お漬物とハタハタのサービスをいただきます。

これだけ肴があると、お茶とお蕎麦では何となく寂しい。小上がりでベロンベロンに酔っぱらって、大声でやりあってる2人のオバサンがうらやましい。

近所の人で、家族が連れてきてくれて、女将さんが送って行くのだそうです。それにしても二人の声がうるさくて周りの人は逃げるように帰っていきます。

a120304001


満腹になって、さて池の河内、と思ったら、又八庵から先は道路がぶち切れたように除雪されておらず、茫然・・・

まあ、市内に雪が降ってた時の状態を考えると行けるのかなとは思いますが、除雪されていない道が目の前にあるとびびります。

戻って467号線で再度今庄に向かうか・・・降りしきる雨の中で気持ちが萎えてきて、未だ行きついていない定廣院の笏谷石石仏群をお参りして帰ろう、と計画変更です。

a120304003

刀根方面から8号線に戻り、敦賀に向かって走ると疋田の交差点の手前に愛撥(あらち)公民館の看板があります。

以前に公民館の近くに石仏群があるだろうと検討をつけていましたので、公民館を目指します。

せめて近くに行けば、なにか標示があるだろうと甘い期待で行きましたが、公民館に着いても、周囲になにも標示はありません。

もう少し先に行ってみようと進むと、どうも怪しい坂がでてきますが、やはり何も書いていない。道も狭く、近所に車も停め難そうです。

a120304009


と言う間に、161号にでてしまいます。

しょうがない、そう言えば、新疋田駅に手書きの愛撥地区の観光案内図が壁に貼ってあったなと。確かその地図に石仏群への案内が書いてあったはずだ・・・丁寧に写真入りの説明がありました。

やはりあそこの坂だったか・・・
新疋田駅から戻り、坂の少し先の道路が広くなった路肩に車を停めて歩き始めます。

登って行っても標示はなにもなく、墓地の奥まで行ってしまいます。一面の雪の上には鹿らしき糞と足跡は見えますが、人の足跡はまったくありません。靴の中に雪が入り込みます。

a120304012
唯一見える足跡は自分のものです・・・この写真の正面奥に仏像群がありました

墓地の奥まできましたが、それらしきものは見当たらない。雪の下に埋もれているのか、そうでもないらしい・・・もっと奥かもしらん・・・と、登り続けると山道になります。

動物たちの足跡が集中している水場があります。まあこんなところではないだろう・・・と戻ります。

a120304019

墓場に戻り、見渡すとはるか向こうに、光背らしき形が並んでいます。あっ、あれかも・・・

雪の中を横断して行くと、「贈潅大僧都智門院覚傳上人」と読める大きなお墓があり、そのお墓を護る様に、石仏が並んでいました。

覚傳上人は 定廣院に所縁のある僧正だと思うのですが、調べても判りませんでした。

定廣院は天台宗真盛派の寺院ですが、お寺自体は161号を挟んだ疋田の町の中にあり、ここは定廣院の墓地に当たるらしい。

a120304045
一番奥のお墓が覚傳上人のお墓になります。

定廣院に行けばなにか縁起があるのかもしれませんが、実は、ようやく墓地にはたどり着きましたが、未だお寺はどこにあるか判っていません。

以前に記事にしましたが、敦賀市博物館編集の図録集「近世敦賀の幕開け〜吉継の治めた湊町〜」に定廣院の笏谷石の石仏群のことが記載されています。

再掲になりますが・・・

a120304022

「笏谷石は、福井の足羽山近辺を主産地とする緑色凝灰岩で、その利用は古くは古墳時代の石棺に始まりました。

中世に石塔としての利用が広まり、朝倉の庇護のもとに勢力を伸ばした天台宗真盛派による石塔、石仏への利用が盛んになります。

一乗谷では盛源寺、西山光照寺の二寺を中心とした十一ヶ寺で1,700もの笏谷石を用いた石塔、石仏の遺例が確認されています。

またこの笏谷石の石仏は武生の引接寺など越前国内に広がっており、敦賀にもここ定廣院墓地に33体の石仏が残されています。」

a120304029

「朝倉の治世に抗する念仏中心の一向宗に対抗して、真盛派の造仏活動が盛んとなった」との記述もあります。

33体の石像は最初からここにあったものではなく、周辺から集められてきたのだそうです。

a120304032

現在は覚傳上人の墓所を楕円形に囲うように並べて配置され、損壊の激しい石仏もあります。

雪に埋もれて、各石仏のお姿を仔細に確認することはできませんが、図録によると、全て90cm程度の高さで舟形の光背を持ち、蓮華座または盤座の上に乗る像が一石で彫られているとのこと。

a120304038.jpg

石仏の内訳は図録によると下記の33体になります。

  • 千手観世音菩薩                            10体  (立像8体、座像2体)
  • 地蔵菩薩                                         8体 (立像6体、座像2体)
  • 如意輪観音菩薩座像                6体
  • 馬頭観世音菩薩座像                     3体
  • 聖観世音菩薩立像                          2体
  • 十一面観世音菩薩立像                2体
  • 不動明王立像                                  1体
  • 天部立像                                         1体
a120304039

全体の像の形状、細部の精巧な彫成に関わらず、全体として素朴な印象を与えること、背面の鑿の仕上げなど一乗谷石像と共通する点が多く見られ、一乗谷から供給されたと考えることが妥当であろうと。

a120304042

記年は1549年、1557年、1562年、1563年が確認され、16世紀中頃に栄えた一乗谷の石塔、石仏文化が華開いた時期に一致しており、一乗谷の作であることを証していると言える様です。

雪の中にひっそり肩を寄せ合う仏像達はその肉の薄い光背から崩れ始めていて、いずれ土に還ろうとしているかのようです。

道案内もなく、石像の由来の記載もなく、墓所の仕切り壁のような設置の仕方をされた石像達のお姿は、その歴史の重さからみて、ふさわしい扱いなのだろうか、と寂しい思いがします。

a120304027

雪が融けた時期に訪れて、再度、写真をきちんととらせていただこうと心に決め、帰路につきました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA