水の国、水の森

「遠敷」で書きたくて、はみ出した続編になります。瓜割の滝の写真は2005年のものです。

夢枕 獏原作、岡野玲子作『陰陽師』に「鵜の瀬」が登場します。原作は読んでおらす、漫画化されたもののみの知識ですが・・・
.

陰陽師第8巻太陰
陰陽師第8巻太陰

第8巻「太陰」は副題に「安部清明 天の川に行きて雨を祈ること・・・」とあり、概要は清明が雨乞いのために博雅を伴って、「瓜割の滝」、「鵜の瀬」から吉野までたどるものです。

若狭は『水の国』と呼ばれていること、そのうちでも、天徳寺の境内の「瓜割の滝」周辺を『水の森』と呼ばれていたことから雨乞いの旅が瓜割の滝から始まります。

鵜の瀬から吉野の玉置まで直線状に水の道が走っており、その直線を2分する位置に東大寺があるなど、興味深い話が満載です。

東大寺だけでなく貴船、上下賀茂、伏見、春日大社などがその直線状にあり、その水の道をたどって吉野に向う話になります。

あらすじは下記の通りです。

鵜ノ瀬

日照りに苦しむ京の都では陰陽寮(おんようりょう※1)において、清明の先輩天文博士である保憲による五龍祭および、僧寛空による神泉苑(※2)における請雨経法等の雨乞いの祭祀が執り行われようとしています。

神泉苑には竜神(善女竜王)が住むといわれ、西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったという。

公式な場で計画されている雨乞いの祀りの裏で、天皇より清明に対して雨乞いの勅書が博雅を通じて届けられます。

瓜割の滝2005年10月9日

清明は保憲の下に瓜(後に瓜割の滝で冷やした瓜の一つであることが判ります。)を届け、五龍祭を手伝えないことを謝り、瓜を献上します。

保憲の元を辞した清明は、博雅を伴い「水の国」の「水の森」に向います。

ここで、「水の国」は若狭を表し、「水の森」は天徳寺の境内に湧く駒清水(瓜割の滝)を指します。

天徳寺 2005年10月9日

天徳寺は泰澄の開基、天暦の年代、村上天皇の在位に旱魃があり、天徳と改元され、その時に天徳寺は勅願寺となります。

天徳寺には泰澄が宝篋ヶ山の頂上で刻んだという馬頭観音が祀られています。泰澄は、彫り上げた馬頭観音菩薩を神水のある霊地に草庵に安置しようと、神水を探し求めて廻ります。

目指す神水をがなく、あきらめた大師は志を捨て、獄の岩の上に尊像を安置して悲しみ嘆いていました。するとそこへ、南方の二本の古木の間より頭に白蛇を頂いた龍馬が飛来しました。

瓜割の滝2005年10月9日

『我は北天竺の八大龍王なり。観世音菩薩の御威光と大師の御徳を感じ、我が北天竺の水を移して永くこの泉に留まり、天下泰平、五穀豊饒を祈るなり・・・』

お告げがあり、彼方の岩窟に入ったとたん、四方に神光が放たれ大地は鳴動し、岩が破れて神水が湧き出ました。この神水をもって駒清水と名付けられたのです。

瓜割の滝

駒清水の向いにある大きな岩を龍王岩と云い、八大龍王(水ノ森大神)が鎮座して駒清水を見下し守護していると伝えられ、この一帯を水ノ森と名付けられています。

清明は駒清水で冷やされていた瓜を6つ受け取り、鵜の瀬、貴船、室生の龍欠、丹生川上と龍神に祈りを捧げつつ吉野まで歩き、京に雨をもたらせます。

天徳寺

水の国、若狭から吉野まで水の道で連なっているという発想はお水送りから想起されたものなのかもしれません。でもその広大なスケールの構想は面白くて、つい自分も清明の跡をたどってしまいたくなってしまいそうです。

=================================================
※1陰陽寮:律令制において中務省に属する機関のひとつ。占い・天文・時・暦の編纂を担当する。

※2神泉苑:平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営され、天皇や廷臣の宴遊の  場となった。

【追記】:福井新聞に『ふる里百景』と言う連載があります。日にちは忘れたのですが、同連載のNO.15 に名田庄の部落にある土御門館跡の記事がありました。

安部清明を始祖とし、全国の陰陽師を支配する土御門家が応仁の乱の戦果を避けて名田庄に移り住み、120年にわたり、この地で朝廷や将軍家の占いを行い、天文造暦編纂の地としたのだそうです。

下記を参考にさせていただきました。
夢枕 獏原作、岡野玲子作『陰陽師』
福井県教育研究所公式サイト
関西電力株式会社原子力事業本部「新わかさ探訪」

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA