68歳・・・

10年以上敦賀に居て、敦賀祭りをまともに見たことがありませんでした。

昨年、よく解らずに9月3日に行ってパレードの後半を見ました。山車の巡行は、9月4日なのだと。

今年は山車を見てみたいと思っていましたが、例の通り、行こう、行こうと思いつつ出遅れて、たどり着いたのが16時。

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山車の勢揃い、巡行は既に終わって、出番を終えた山車がポツンと神楽の通りに佇んでいました。

山車が勢揃いするのは12時頃だったのか・・・山車の巡行が、たったの1日、しかも3時間程度ってのはなんか寂しい気がします。

お祭りに空振りするのは、長い間、単身赴任で敦賀で暮らして、あちこち歩き回り、敦賀を知った様な気持ちにはなっているけど、観光客目線で、地元民にはなれなかった、ということの象徴かなどと、ふと思ってしまいます。

生活の大半を敦賀で過ごしながら、住民票も移さないままだったし、帰る家がある仮住まい意識があるから、敦賀の人の生活の中に溶け込めてないというところがあったでしょうか。

以前、敦賀市立博物館の講演で、山車の話を聴講したのですが、記憶が定かではありません。

博物館発行の『近世敦賀の幕開け~吉継の治めた湊町~』および『氣比さんとつるが町衆』で確認します。

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山車の起源は室町期に遡るのだそうです。

敦賀の商人の活躍と共に、盛んになり、江戸時代には各町が出す、12基の山車に加えて、商家、個人で出す中小の山車があり、全てを併せると50基を数えたのだと。

吉継亡き後、敦賀は一時の福井藩から小浜藩支配となりますが、藩主京極家、後継の酒井家から、敦賀の豪商、打它宗貞が敦賀郡代官を任されていました。

打它宛てに、小浜藩から、敦賀の山車が華美に走らないよう注意する文書が出されているそうです。

本来の町が出していた大型の山車は、飾りもなく、大きな松の木を立てただけで、それを幕で覆った程度のものだったのだそうです。

山車を曳き終えて、既に酒が入っているのか赤い顔したおじさんが話してくれます。

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明治時代に大きな山車は解体されたり、戦火で焼けたりして、山車として残ったのは中規模の山車、3基だけ。その後、解体した部材などを利用して、3基を組立、現在の6基になっている。

山車の4面に張られている、緞帳は1面1500万円、4面で6000万円かかる、補助金で新調したんだ、と。

説明の中に、北前船の航路が敦賀を経由していたころは栄えたが、敦賀を経由せず、直接大阪に向かう航路が主流になり、栄枯盛衰があったと言う記述がありました。

能登で北前船の話を聞いたときに、船乗り達が北海道から大阪まで物資を運び、陸路で能登に帰ってくると言う話を聞き、敦賀の湊としての位置づけに疑問を感じましたが、実際にあったことなのか。

平重盛に始まり、吉継も計画した敦賀湾から、びわ湖への水路開設計画には敦賀を重要拠点とした、物流線の確保のために、必須の計画だったということかも知れません。と、余分なことを。

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朝倉と信長の戦で焼失した氣比社は福井藩、結城秀康、小浜藩などの寄進で復興していきますが、その流れとは別に、下記の記述がありました。

天台宗の三門跡寺院の一つ、青蓮院は多くの荘園を有し、氣比社もその一つであり、1235年に氣比社の社務を務めるようになった、とあります。

以降、青蓮院は荘園としての氣比社の本家であり、また氣比社の朝廷との関わりは青蓮院を通して行われるようになった。

荘園制度が廃された後も青蓮院との関係は続いたのだそうで、公的な格付けの後ろ盾になっていたと言えるのだと。

踊りの人達が集まりつつあり、夜の賑わいが想像出来るようでしたが、蒸し暑さに耐えられずに、歩いて五縁に向かいました。

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冨乃宝山のボトルが空いてしまって、どうする?と。あと1ヶ月で新しいボトルを空けるのは難しそうで、単品のチュー水を頼みます。

そう言えば、今日から68歳になったんだ・・・

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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