ようやく4月26日から5月4日のペルー行の整理をしていきます。まだ、3月の記事が少し残っているのですが・・・
奥さんから「マチャピュチュに行きたい。どうせならまだ体力があるうちに行きたい。」という提案があったのが、昨年の秋口でしたでしょうか?
昨年はちょっと大きな工事の行方がどうなるかということで5月の連休に海外旅行するのはあきらめていました。
今年はその仕事が山を越えて、もう俺の出番も少ないだろうから自由にさせてもらおうと思っていましたので、旅行自体は大賛成なのですが・・・
受験時代のZ会のニックネームにビュッフェ夫人、「マダムアナベル」とともに使っていたのが「マチュピチュ」でした。
自分の力不足のせい、あるいは努力不足のせいで、出口の見えない状態で鬱屈した2年間の大学浪人時代の夢のはけ口の憧れの地だったとうことです。
どこにも行けない受験時代に、焦れば焦るほど、逃避するように夢想にふけり、山や旅行に憧れ、本の上の想像上でたとえば北アルプスの色々なコースを彷徨っていました。
その頃、海外旅行は現実離れしていたのか、夢想の対象にならなかったようですが、写真で見かけただけだったマチュピチュでしたが、いつかは、という憧れの対象になっていたようです。
大学に入った途端に麻雀と「お友だち探し」の世界におぼれて、北アルプスはどこへやら、マチュピチュもただの憧れのままに終わります。
その後、若干知識は増えましたがマチュピチュは憧れの地のままでいました。
どちらかというと美味しいものはとっておいて、最後に食べるタイプの人間で、、マチュピチュはまだ早いという気持ちが多分にありました。
また、昔からあこがれてきたところに行くのに、もっともっと調べて満喫したいという気持ちもありました。
奥さんの「体力があるうちに」という言葉は、最近、とみに体力に対して自信を喪失してきている自分には効きました。
よし、マチュピチュに行こうと。
と、きまれば、マイレッジをためることを第一としてJALパックにお電話、正月の10日に今年のツアーが発売になると教えていただきます。
1月10日を1日、2日過ぎたでしょうか、ネットで申し込むともうキャンセル待ちの表示が・・・えっ???
一瞬の油断がドツボだったか・・・そんなにマチュピチュ遺跡好きの人が多いのかと驚きます。
電話して訊いてみると、ローカルの飛行機便の手配が早急にはできないので、ツアーの成立性が不明という意味が強いようでした。
どうせならと以前から行きたかった、ボストン経由でニューヨークに行くツアーを申し込みます。クラークコレクションでボストンを意識していたこともありました。
それからしばらくの間、きちんと決まらず、不安な日々を過ごし、JALとはメールや電話で何回かやり取りをしていました。
ようやく、飛行機が確保できてきたとの連絡に喜びますが、逆に今度は人数が少ないため、最少催行人数に満たない可能性があるとのことで、冷や汗が・・・
申し込んでいたコースはナスカとマチュピチュ9日間の旅でしたが、さらにイグアスの滝まで行く12日間コースというツアーがあり、合算すると17名になり、ツアー成立の連絡を受けホッとしたのが3月に入ってからでした。
出発が連休前の26日。25日の夜に自宅へ帰ります。
4月26日17時25分出発予定のJL062便、到着が遅れたのか、約1時間出発が延期になります。
ペルー、リマまでの飛行機への乗り換え時間は約2時間、比較的乗り換え時間が少ないため、心配ですが、ツアコンダクタが一緒なので、まあ、なにがあっても大丈夫だろうと。
各座席に用意されているパーソナルビデオシステムはえらく画面が綺麗で、タッチパネル式なので、感激ものでした。
JALのシステムは比較してみてしまうと、画面が暗い上に、紐付きのリモートコントローラがうっとうしい。
まあ当然のごとく、日本語はなく、英語かスペイン語 ですから、ちょっと複雑な映画は難しいですが。
食事は全く口に合うことはなく。赤ワインで押し込んでいるうちにリマに到着。
夜12時を過ぎています。
バスでホテルに到着して、チェックイン。風呂を浴びて寝たのはなんだかんだ言って2時近くでした。
翌日はゆっくりと起きて、リマ観光に出かけます。
現地ツーリストの日系人、カルメンさんが訥々とペルーの説明をしてくれます。
リマはコンキスタドールのピサロが作り上げた海岸部にあるペルーの首都で、周辺を合わせると900万人に近い人口がある。
カルメンさん、フジモリさんに限らず、街の中になんとなく、日本人に近い人が多いように思えますが、人口比率から考えるとそれほど日系人は多くない。
きっとインディオ自体が、アジア系と共通の祖先を持っていて、全体が日本人から見ると親しみが持てるということなのでしょう。
バスから街を眺めていると、あきらかに街の色合いが違う・・・、ヨーロッパやアメリカでは景色は異なっても、色彩感覚が異なるという体験はしなかったような気がします。
ここでは外に見える色が根本から違うような・・・たどり着いたラルコ博物館・・・感激の一言でした。
カルメンさんの説明で、前インカ時代というべきの発掘物の素朴な感覚が訴える力は微笑ましくも迫力もって自分に迫ってきました。
帝国時代になると、上からの強制があり、芸術面での奔放さが抑えられていったというお話も興味深いものでした。
「Larco博物館(Museo Arqueológico Rafael Larco Herrera)は前コロンビア文化のプライベート博物館である。
博物館は7世紀の前コロンビア文化のピラミッドのあった土地にたてられた18世紀の領事館を利用している。
内部の陳列は4000年に及ぶペルーの前コロンビア文化の歴史に沿い、年代順に展示されている。
1925年、ラファエル・ラルコ・ヘレラは彼の義理の兄弟から、土器のコレクションと考古学的な約600の陶片を手に入れます。
それらの品を見たときに、ヘレラの息子、ラファエル・ラルコ・ホイルの考古学的情熱に火をつけることになります。
父はそれらの最初のラルコ博物館のコレクションを、ホイルに預け、陶片の復元を任せて亡くなります。
同じ年に、伯父のリコメンドがあり、違法な盗掘から過去の遺産を守るために、博物館を遺産の眠るリマに博物館を移すことになった。
ホイルはリマに父の遺産を運び込むと同時にペルーの各地から多くの出土物を買い求め、膨大なコレクションの展示の準備を整え、1926年7月28日の独立記念日に公開を迎えることになった。
そのコレクションを貸し出している。」
博物館の後に、シーフードのランチをして、お土産物屋に連れて行ってもらい、初日からお土産を物色することになりました。