3月2日、お水取りに向かう前に明通寺に寄ったことは記事にしました。ずいぶん前になりますが・・・
明通寺の後、前から歩いてみたかった三丁町を目指します。
三丁町は小浜市小浜西組にあった茶屋街の界隈を指すということです。
「福井の文化財」にある「小浜西組」の記述をお借りします。毎度のことですが、元の文章を若干いじらせていただいています。
「小浜城下の3組に分かれていた町人地のうち、小浜西組は小浜市中心部の西、後瀬山と小浜湾とに挟まれた東西に長い平野部に位置する地域をさします。
西組保存地区には、丹後街道が東に折れ曲がる辺りを境に東が商家町、西が茶屋町、後瀬山麓および西端部に寺町が形成されている。
近世前期の街路の構成と近世末期の地割がよく残っており、近世から近代に建てられた商家や茶屋、寺社など、商家町や茶屋町、寺町が併存する近世城下町の景観を、今に伝えている。」
「小浜市の歴史と文化を守る市民の会」、「福井県:歴史・観光・見所」、Wikipediaの記述をお借りします。
「小浜は、若狭地方の都市で、日本海の暖流と寒流が合流する若狭湾により、豊富な海産物を育む天然の良港であったことから、飛鳥・奈良時代から朝廷に食材を献上する御食国(みつけくに)でもありました。
藤原京・平城京で出土する木簡に、若狭から送られた海産物、若狭湾沿岸部で生産された塩等の記載が多く認められています。
また、小浜は京都の外港としての性格が強く、多くの物資が集められ、時には中国や朝鮮半島との国際港として利用されました。
若狭国府は小浜市の府中や遠敷にあったと推定されており、国分寺、若狭一宮である若狭彦神社や若狭姫神社、総社である総神社などが点在しています。
中世に入ると、若狭守護が置かれ、若狭武田氏、武田元光の代に後瀬山に居城を構え城下町が形成されていきます。
永禄11年(1558)、越前の朝倉氏に武田家が倒され、その朝倉も信長に倒され、丹羽長秀が小浜の城主となります。
豊臣秀吉の時代に浅野長政、木下勝俊の領地となり、関ヶ原後は戦功のあったお初さんのご主人、京極高次が小浜を領地とすることになります。
関ヶ原の戦いの布陣を見ると、大谷吉継と対峙する東軍の位置に高次の弟の京極高知がおり、福島正則、藤堂高虎とともに、大谷軍と戦っています。
吉継亡き後の敦賀を併せた小浜の城主になる高次の弟と吉継が同じ戦場で刃を交えていたというめぐり合わせがあったわけです。
実は浅学にして、吉継と対峙したのは京極高次と勘違いしていて、そのために、俺の贔屓の吉継を討ったやつと、お初さんのご主人を思い込んでいました。
高次は弟の高知を家康軍に加担させ、自らは逡巡がありながら、大津城に籠城し西軍に対峙し、開戦前夜に降伏し、三井寺で剃髪し高野山に落ちます。
数万と言われる西軍の大軍を引き付け、関ヶ原の西軍の戦力を削ぐことに功績があったことで、家康に高く評価され、呼び戻され小浜に封じられたのだそうです。
高次は小浜藩主となると後瀬山城の代わりに日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に、二条城に似た小浜城を新に築きます。
また、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備し、新たな街区を設けるなど、現在に残る城下町の基礎を整備します。
寛永11年(1634)2代忠高が松江藩に移封になり、代わって酒井忠勝が藩主となり城下町の拡張や領土の整備を行い、1684年(貞享元年)に東組、中組、西組の3地区に分けられる。
西組の町割りは三丁町に代表される茶屋町が西側にあり、茶屋建築の千本格子、2階の縁や出窓を持つ建造物が残されており、現在も芸妓を置く料亭も存在する。
広市場・狭市場と呼ばれる商家町は丹後街道の東側にあり切妻造平入であり、趣が異なる。
また、後瀬山山麓および西端に小浜藩主酒井氏の菩提寺である空印寺等の寺町が町割りされている。
西組は旧丹後街道に沿って、近世前期の古い町割りが残る。
建物は1888年(明治21年)の大火以後のものが多いが、伝統的建造物が多く残っており、2008年(平成20年)6月10日に重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
酒井忠勝は3代将軍徳川家光と4代家綱に仕えた譜代大名で、老中や大老を歴任するなど将軍家からの信任が厚く、譜代大名としては異例の国持大名の格式を得て12万石を超える石高を有するまでになりました。
酒井家は以後14代にわたり藩主として支配、幕末でも常に幕府側に立ち新政府軍と戦います。」
冷たい雨混じりの天気、これから神宮寺に向かう忙しなさと、ゆっくりと歩くことはできませんでしたが、天気のいい時に、改めて写真目当てに来てみたいと思いました。
八幡神社の放生祭の紹介が八幡神社の脇にありました。
今まで来てみたいと思いつつ実現していませんでしたが、今年はぜひ来てみようと・・・