ペルー後遺症の上に、ゴルフで遊び過ぎで、なかなか新しいぶるうすを歌うことができない状態が続いています。
とりあえず、3月の京都の話を続けます。ってもう6月ですか・・・
しばらく「光庭」に面したベンチで休憩後、地階の魯山人等の常設展を鑑賞してそろそろ清水寺に向い歩き始めました。
建仁寺の境内を通り過ぎようと中に入ると、丁度、拝観時間が終了した所の様で、人々がぞろぞろと出てきているところでした。
建仁寺には、申し訳ないのですが、いつも、夕方に通り過ぎるだけのような気がします。いつかきちんと拝観させていただきたいと思います。
陽が落ちるのを待ちつつ境内の花を求めて歩いていると道元禅師の説明がありました。
永平寺開山、曹洞宗高祖、道元禅師は叡山で修学に勤めますが、教学への疑問を追及して飽き足らず、三井寺座主公胤僧正を訊ねます。
栄西禅師の高僧、明全和尚に師事し、修業を積みます。
1224年、明全和尚とともに入宋、曲折の末、師と仰ぐべき景徳寺如浄禅師に出会い、5年の年月の後に、教学を納めて、建仁寺に帰ります。
共に入宋した明全和尚は宋で客死し、その遺骨を携えての帰国だったのだそうです。
天台本覚思想では、一切の事象は仏陀の本覚そのものであるとし、端的に「本来本法性・天然自性身」という、我々衆生が本来悟った仏であるという意義が強調されていた。
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『顕密、二経共に談ず、本来本法性、天然自性身と。若し、此くの如くなれば、即ち三世の諸仏、甚に依ってか更に発心して菩提を求むるや。』
上記Wikiの年表では道元禅師が建仁寺を訪れたのは栄西禅師没後の1216年で、1217年明全和尚に師事とあり、栄西禅師(1114年〜1215年)に教えを乞うことはかなわなかったということになります。
これを聞き、道元禅師の長年の疑問は氷解した。すなわち、自らがネコや、ウシであったことに気が付くのである。」
建仁寺のサイトでの栄西禅師の年表を見ると1214年、道元禅師と相見するとあります。相見とはただ会うというよりは、対話をしたという意味合いをもつでしょうか・・・
まず栄西のところへ行ったというふうに伝えられておりますが、まあ栄西禅師その人に実際にお目にかかる機会があったのかなかったのかは、あまりはっきりしないようなんです。
栄西禅師は間もなく亡くなられてしまいましたので、機会があったとしても、大して接触はできなかったのでしょう。
いわゆる臨済系統の禅で9年間ほど勉強したのですが、日本では十分に禅を学ぶわけにいかない、何としても本場であるところの宋の国へ行って学ぼうと、機会を求めていたのです。
説により道元禅師が建仁寺を訪れた年に食い違いがあり、よく判りません。
1214年と考えると、栄西禅師にはお会いしたが、すでに晩年であり、教えを乞うまで至らぬまま、翌年に入寂され、弟子の明全和尚に師事したというのが納得できるような気がします。
栄西禅師が道元禅師に答えたとされていることは、栄西禅師かもしれないし、明全和尚であったかもしれない・・・いずれの場合でも、少なくとも栄西の教えとしての臨済禅の考え方に触れたということになると・・・
ただし、1214年というとまだ、14歳の道元禅師が叡山を喝破し、栄西禅師を訪れたことになり、如何に道元禅師が神童であったとしても早すぎる様な気もします。