花灯路序章

ペルー後遺症の上に、ゴルフで遊び過ぎで、なかなか新しいぶるうすを歌うことができない状態が続いています。

とりあえず、3月の京都の話を続けます。ってもう6月ですか・・・

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新しいお気に入りの場所、可必館での上野憲男展を堪能。

しばらく「光庭」に面したベンチで休憩後、地階の魯山人等の常設展を鑑賞してそろそろ清水寺に向い歩き始めました。

建仁寺の境内を通り過ぎようと中に入ると、丁度、拝観時間が終了した所の様で、人々がぞろぞろと出てきているところでした。

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建仁寺には、申し訳ないのですが、いつも、夕方に通り過ぎるだけのような気がします。いつかきちんと拝観させていただきたいと思います。

陽が落ちるのを待ちつつ境内の花を求めて歩いていると道元禅師の説明がありました。

サイトの説明と、以前道元について調べた時の浅薄な知識で補うと下記の様になるのかと。
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東山建仁寺は1202年、栄西禅師を開山とし、天台、密教、禅の三宗兼学の道場として鎌倉幕府2代目源頼家(頼朝嫡男)により開基された。

永平寺開山、曹洞宗高祖、道元禅師は叡山で修学に勤めますが、教学への疑問を追及して飽き足らず、三井寺座主公胤僧正を訊ねます。

公胤僧正の薦めにより、1214年、建仁寺に栄西禅師を訪れ、相見することになりますが、1215年、栄西禅師入寂。

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栄西禅師の高僧、明全和尚に師事し、修業を積みます。

1224年、明全和尚とともに入宋、曲折の末、師と仰ぐべき景徳寺如浄禅師に出会い、5年の年月の後に、教学を納めて、建仁寺に帰ります。

共に入宋した明全和尚は宋で客死し、その遺骨を携えての帰国だったのだそうです。

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道元禅師の叡山における疑問について「 つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉 」の「道元」の記事内容をお借りします。
「比叡山で修学中に、道元禅師が、当時、比叡山にて流行していた「天台本覚思想」に対して、重大な疑問を発したとされている。

天台本覚思想では、一切の事象は仏陀の本覚そのものであるとし、端的に「本来本法性・天然自性身」という、我々衆生が本来悟った仏であるという意義が強調されていた。

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さまざまな高僧の伝記を読んだ道元禅師は、「本来悟った仏であるならば、諸仏は何故発心し、修行をして、悟りを得たのだろうか?」※と、疑問に思われた。

『顕密、二経共に談ず、本来本法性、天然自性身と。若し、此くの如くなれば、即ち三世の諸仏、甚に依ってか更に発心して菩提を求むるや。』

この疑問を各地の僧に問うた道元禅師は、三井寺公胤僧正から、中国に渡るか、京都建仁寺で禅宗を挙揚していた明庵栄西禅師を訪ねるように勧められたのである。 」
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道元禅師が栄西禅師に直接師事したのかどうかは文献により、異なる考え方が並立しているようです。

上記Wikiの年表では道元禅師が建仁寺を訪れたのは栄西禅師没後の1216年で、1217年明全和尚に師事とあり、栄西禅師(1114年〜1215年)に教えを乞うことはかなわなかったということになります。

『座禅に活かす「正法眼蔵」』窪田慈雲著の前書きでは下記の様に記載があり、さらに混乱します。
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おねいさん・・・襟を抜き過ぎじゃないかしら・・・うれしいけど・・・
「18歳の秋(道元禅師は1200年生まれなので、1218年ということになる)、建仁寺栄西禅師の会に投じ、直ちに自らの疑問を呈した所、栄西禅師は「三世諸仏有ることを知らず。狸奴(ネコ)白こ(ウシ)、却ってあることを知る。」と答えられた。

これを聞き、道元禅師の長年の疑問は氷解した。すなわち、自らがネコや、ウシであったことに気が付くのである。」

建仁寺のサイトでの栄西禅師の年表を見ると1214年、道元禅師と相見するとあります。相見とはただ会うというよりは、対話をしたという意味合いをもつでしょうか・・・

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私の旅歩きと山」というサイトの「こころの時代にようこそ」というコーナーにフランス文学者で道元の研究者であった元東大教授の森本和夫先生のNHKテレビの対話が記録されています。(だいぶ略させていただきました)
「道元は勉強すればするほど、ますます疑問も出てくるし、その疑問に対して、自分でも解決つかないことになって、それでいろいろ指導者を求めたんです。
それで今までの仏教では解決できない、禅というものをやった方がいいと勧めてくれる指導者もいて、日本で禅を学びかけたのです。

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まず栄西のところへ行ったというふうに伝えられておりますが、まあ栄西禅師その人に実際にお目にかかる機会があったのかなかったのかは、あまりはっきりしないようなんです。

栄西禅師は間もなく亡くなられてしまいましたので、機会があったとしても、大して接触はできなかったのでしょう。

その栄西さんの後を継いだ明全という人のもとで・・・これは建仁寺なんですけど、道元は禅をかなり学んだのです。
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いわゆる臨済系統の禅で9年間ほど勉強したのですが、日本では十分に禅を学ぶわけにいかない、何としても本場であるところの宋の国へ行って学ぼうと、機会を求めていたのです。

やっと念願叶って中国へ勉強に行けることになり、師匠明全和尚とともに旅立ちます。」
この文章は談話の中のごく一部です。文章全体はかなり長文ですが、サイト管理者の方がビデオから聴き起こしたもののようです。ちょっと驚きです。
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説により道元禅師が建仁寺を訪れた年に食い違いがあり、よく判りません。

1214年と考えると、栄西禅師にはお会いしたが、すでに晩年であり、教えを乞うまで至らぬまま、翌年に入寂され、弟子の明全和尚に師事したというのが納得できるような気がします。

栄西禅師が道元禅師に答えたとされていることは、栄西禅師かもしれないし、明全和尚であったかもしれない・・・いずれの場合でも、少なくとも栄西の教えとしての臨済禅の考え方に触れたということになると・・・

ただし、1214年というとまだ、14歳の道元禅師が叡山を喝破し、栄西禅師を訪れたことになり、如何に道元禅師が神童であったとしても早すぎる様な気もします。

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と・・・通り過ぎた建仁寺の立て看板を見て、話が違う方向に行ってしまいました。
三寧(三年)坂を登りつつ、陽がなかなか落ちそうもなく、お茶屋さんで一休みしてお抹茶をいただき、日が陰るのを待ちました。
再び歩き始めると、ライトアップの興奮を求めて集まってくる人達なのか、週末は普段からこれくらいの人が集まるのか、大勢の人が行き来します。

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清水から始めて、何処まで歩けるか楽しみでしたが、暗くなるのを待ち続けて、暗くなってくると、同じ様な写真を何枚も撮って動けず、結局、高台寺、円徳院で10時を迎えてしまいます。
距離からすると唖然とするほど歩けませんでした。
続きます。
くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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