大野城に向う前に、左義長の時にどんど焼の御神火をいただく、神明神社を御参りすることにします。
細い道を通り抜けてたどり着いた神明神社、境内は大きなものではありませんが、桜の大木があり、神殿の背後に大日山を備えて、雰囲気のある神社です。
桜は大分盛りを過ぎています。拝殿の背に大日山が在るのを見て、余分なことを考えます。
神棚を祀る場合に、神棚は南、あるいは東を向ける位置におくのが良いとされ、昨年、事務所の模様替えをした時に悩んだ記憶があります。
神棚に対して、そう言う想いをしながら、神社について、拝殿が開けている方向を今まであまり意識したことがありませんでした。
背後に大日山があるということは、拝殿は背中を北にして、南側に向いているのだろうなと。
敦賀で考えると、気比神宮は南、常宮は東を向いている。ただし、常宮の拝殿は東だけでなく、気比神宮に向けて建っているという意味があるのではないのかと・・・素人考えですが・・・
今日こそは、と御朱印帳を持ってきたのですが、誰も居ない雰囲気で、諦めて、大野城に向います。
途中、交差点に「平泉寺こちら」の案内があります。
左義長の時に、雪の平泉寺を堪能しましたので、今日は予定していなかったのですが、まあお参りだけはしておこうかと向います。
そう言えば今朝の朝刊に平泉寺南谷の発掘調査現場の整備が進み、昨日、現地説明会があったとの記事がありました。
2月にお参りした時に、南谷発掘現場の道案内がありましたが、南谷に降りる道は雪に閉ざされていました。
正式な公開は7月ということなので、まだまだ、準備段階なのだと思いますが、アクセスできるなら行ってみようと。
平泉寺にたどり着くと、駐車場が賑わっていてびっくり。
前回は地元の人たちのソリすべりでにぎわっていましたが、他の参拝客は2,3人しかいない感じでした。
資料館の「まほろば」でトイレをお借りして歩き始めます。
左側に平泉寺塔頭 顕海寺の手前に「僧東尋坊」の小さな碑がたっています。
もう何回も写真を撮っているのですが、恒例行事という感じでカメラを構えると、顕海寺の斜面に「いろどり」を感じます。
その北側が一段高くなっていて、顕海寺の敷地となっていますが、その斜面一面に可愛い、カタクリが満開状態で咲き誇っていました。
いままで、今庄、野坂山頂上付近で楽しませてもらっていましたが、こんな民家に近いところに、群生しているのかとびっくりします。
参拝を終えて、南谷発掘現場を歩いたのですが、一部の斜面にやはり、カタクリの群生しているところがありました。
九頭龍川河畔にもパスしてしまいましたがカタクリ群生の案内がありましたし、地域的にカタクリが多いのでしょうか?
少し奥に目をやらないと見えないので、参拝客はほとんどカタクリに気が付くことなく通り過ぎて行きます。
思わず、道行く人を呼びとめて教えてあげたくなる「おせっかいくま」でしたが我慢して社務所に向います。
御朱印帳をお願いして、旧玄成院庭園を拝観します。ここも2月は雪に閉ざされて拝観停止となっていました。
参拝と発掘現場歩きを終えて、駐車場に歩いている時に自転車に乗っていたオバチャンが嬉しそうに声をかけてきます。
「綺麗だったでしょう?私達一所懸命掃除したんだよ。」って、意味が判らずに、曖昧に笑って応えましたが、翌日の新聞を見ていたら、地元のボランティアの人達が清掃を実施したとの記事がありました。
でも、清掃前の状態を知らない人間には清掃の効果を問われても判らないことで、オバチャンには申し訳ないことでした。
雪が解けた後には、枯れ木等が散乱しており、歩きづらい状態だったようで、ボランティアで大がかりの清掃をして、苔の表面が綺麗に現れる状態になったのだそうです。
メインの参道から外れて、各社を廻る細い参道はロープで区切られて、苔の密生した庭とは分けられています。
その参道にも薄くではあるのですがほかほかの苔の絨毯が覆っています。
もったいなくて、傷付けない様に慎重に歩きます。
でも、各社の前で、人が多く訪れる部分はもう、苔は傷ついて剥離し、土の表面が顔をだしていました。
雪の下で、苔が育ち、雪解けで踏み荒らされて、土の表面が顔をだし、冬の訪れによりまた冷たい柔らかい雪の覆いの下で、癒されつつ苔を生長させながら、春を待つ・・・・
これを毎年毎年繰り返してきたのでしょう。
ふかふかの苔の絨毯を歩けるのは春先の雪解け後の、ほんの一瞬で、しかも地元のボランティア達が清掃した直後の瞬間にすぎないのだろうと。
そう言う意味ではラッキーな日に来たということなのかと思います。
南谷の発掘現場には現場に誰もいませんでした。日曜日なので、整備工事も休みらしく、広大な発掘現場にひとりぼっちという状態す。
資料も何もありませんので、状況が判りません。後で「まほろば」で訊いたのですが、「案内図」等は準備中でもう少し待ってほしいということでした。
現場の標識は大分整備されています。
コース案内では右側に谷を下る方向に向う順路になっていますが、逆らって、まず、一番奥の西蓮院跡まで歩いて、全貌を見渡そうと考えます。
大きな棚田のような坊跡が幾段も連なる坂道を登っていきます。
西蓮院後は標識もなにもなく、立ち入り禁止のロープが張ってある池があるだけでした。用意されているベンチで一休み。はるか遠くに経ヶ岳を臨みます。
そういえば弁天桜の向こうに見えたのは荒島と書いてしまいましたが、方角的には経ヶ岳だったかも知れない・・・
西蓮院跡から復元建築中の寺門と土塀の方に降りて行きます。
平泉寺6,000坊のうち3,600坊がこの南谷にあったのだそうです。
今発掘している部分は極一部(1%との記事がありました。)で、伐採されていない林の奥にさらに道が連なっていて、林におおわれた棚田が延々と続いています。
滋賀湖北の鶏足寺(飯満寺)にも僧坊跡の棚田が連なるところに紅葉が生い茂っていました。
ここは規模としてはその何倍では効かない、何十倍あるいは何百倍の規模なのかもしれません。
本来の鶏足寺も叡山の傘下の寺院として己高山一帯に広大な寺域を有していたものでした。
今ある鶏足寺はしたがって、元々の寺域とは異なり、山からおりてからのお寺で、しかも一部のお寺跡なので、規模の比較にはならないと思います。
己高山一帯の発掘も継続されているようです。
大規模な発掘が可能になったら、面白いことになるのだろうと思いますが、立地的には、山の上でアクセスが悪く、平泉寺に比べるとその困難さは比べ物にならないだろうなと。
また、昨年、長浜ツーデーマーチに参加して、標識などを確認しながら歩いていて感じたのですが・・・
史跡と思われる場所が、標示はあるけれど、現在では畑であったり、民家であったりと再開発で史跡をとどめない状態になっていました。
当然のことですが、史跡はその時代を過ごした後の歴史と、土地の利用状況により、運命は変わってしまう。
一乗谷やここ、平泉寺など、比較的、人里の周辺で今、発掘が可能なのは、言い方は悪いのですが、その後の歴史の中で、その土地の重要性が大きくなかった・・・ということなのではないかということを思います。
歴史のはざまでうち忘れられていた地域であるゆえに、再開発による史跡消滅を免れてきたという面があるのではないかと、まあ勝手な想いであります。
復元の門と土塀の内側は芝生が張られ、井戸の跡などの標示がされていました。
隣接する下の2段の坊跡も同じ様に芝生張りで整備されています。
芝生を張ったばかりの状態なので、本来はまだ入ってはいけないのだと思います。芝生を踏み荒らさないようにそっと歩きました。
この発掘は2008年から勝山市が文化庁の補助で5年計画で実施したものなのだそうです。市単独の事業ということにちょっと驚きます。
この5カ年計画で発掘の終了なのか、今までの発掘を基礎にしてさらに発展していくものなのかは判りません。
いずれにしろ、自分にとっては面白い場所がまた見つかったというところです。
歩き廻ってちょっとお疲れになってしまいましたが、いよいよ大野城に向います。