1月13日(日)、3連休の真ん中の一日、事務所や自分の部屋の神棚のお札や正月飾りを持って気比神宮に向います。
これでようやく1月分の写真一掃になります。
どんど焼の焚き木はまだ準備されておらず、ボーイスカウトの手旗信号の訓練中でした。
境内に入ると振り袖姿が次から次から、お参りに現れます。
成人の日はハッピーマンデーで明日だろ?と不思議な思いでしたが、夕方、散髪しに行ったWith Hairさんで、今日、万象プラザで敦賀市の成人式があったことをお聞きして納得しました。
敦賀に帰郷してきて、成人式に出る人も多いので、移動を考えて、連休の真ん中でやるんじゃないんかなと、なるほど。
自分が二十歳を迎える時は2年目の浪人中で、成人式には出席しませんでした。2年めの浪人でいじけてたのか、儀礼的なものに対する反発があったのか、良く覚えていません。
いずれにしろ、欠席の理由なんてその程度のことですから、歳とって今考えると大したことではない。
人生の中でたった1回しか経験するチャンスがない式だから、とりあえず参加しておけばよかったじゃないかとも考えます。まあ、悔やむ程のものでもないですが。
参加しないと言う、ねじれた形で自分を表明したことになりますが・・・
最近の群れを頼んで式の妨害になる程に目立ちたがる若い人達の気持ちはもしかして、世間に対しての反発というところで同根のモチベーションがあるのかもしれない・・・
と、ちょっと嫌な気持ちが・・・
まあ自分の規範の中に人に迷惑をかけないことが第一、という情けないほどの「良い子」がいますので、同じ結果になることはあり得ないですが。
余談になりますが、2年浪人の挙句にようやく大学に入って、入学式にはでたのですが、卒業式は引っ越しの荷物のまとめが間に合わずに、パスしてしまいました。
公の席に縁の薄い男です・・
4年の時に引っ越したアパートの近所に、前から知っていた女の子がいました。
男の子っぽいひょうひょうとした子で、ときどき、ふらっと訪ねてきて、話してはじゃあねと帰って行く。
お茶くらいは出していたのか覚えていませんが、酒もなしにただ、お話するだけのお付き合いでした。
フライデーされた有名人が二人っきりでゲームしてた、とかTPPについて語りあっていたとかいう「せつめい」はあながち判らないわけではない・・・
まあ、端から、男として見られていなかったのか、あるいは以前、自分が彼女の仲間とちょっとあった経過を見ていたので、こいつには距離を置いた方がいいと考えたのか、定かではありません。
家に食事に招かれて、お父さんに泡盛を薦められ、生まれて初めての泡盛をロックで味わって、腰が抜けて、50m位の距離を道幅いっぱい蛇行しながらアパートに帰ったこともありました。
彼女のお姉さんが我々とは逆に、東京暮らしを切り上げて、仙台に帰ってくることになり、ついては仙台でトラックを手配して迎えをだすので東京行きのトラックを使ってくれていいとのお話を頂きます。
仙台から空荷で行くのも、もったいないから、とのお父さんからの申し入れを有り難く、お受けします。
ついでにやはり近所に住んでいた友人もOKということになり、一緒に帰ることになりました。
当然、お姉さんの都合の良い日、ということなので、仙台出発が卒業式の当日の夕方になったのだと思います。
当時、高速道路はごく一部だけ開通するころでしたが、使用したのかどうかわかりません。
学生の頃に、友人の車で仙台から東京まで帰ったことがありましたが、その時に一般道だけで走ったのですが、友人が9時間で着いたと言っていた記憶があります。
自分の性格上、みずから引っ越しの日を決めて、充分準備の余裕があったとしても、ぎりぎりになるまで行動を起こさないという信念の持ち主(?)なので、引っ越し直前のばたばたの責は全て自分が負うところではあります。
一緒に帰る友人は式に行きましたが、こちらはそれどころでなく、おれはパス。
卒業証書持ってきてって・・考えてみると恩師にも助手にも挨拶せずという失礼なことに・・・まあその前に挨拶は済ませていた・・・と思うのですが・・・
と、話が他に行ってしまいました。
お参りを済ませて、駐車場に向いますが、トイレに行って帰ってくると、駐車場の近くに、角鹿神社があります。
以前から気になっていましたが、お参りしたことがなく、神社の名前も知らないでいました。
前に記事にした敦賀の語源と言われている都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)を祀った神社で、気比神宮の摂社として延喜式神名帳に記載された式内社で摂社とは本社の付属社で、末社より大きい神社を指すのだそうです。
石造りの鳥居の右の柱に「元禄」」、左の柱に「文政(?)」との文字が刻印されています。えっ?
まさか、その時代の建立でということはないだろうし、元禄は1688年〜1794年、文政は1818年〜1830年と、左右の柱で時代に大分差があるので、建立した時になにかを記録したのではないか、と思います。
神社の参考にさせていただいている「神社探訪・狛犬見聞録」ではあまり詳細な記述が無く、式内社を全調査していると言う「延喜式神社の調査」に下記の改修の記述がありました。
・元禄、文政大永6年(1525)11月11日改築
・元禄15年(1702)改築
・文政6年(1823)改築
・嘉永4年(1851)改築
・明治10年(1877)3月21日境内摂社の第一に定められる。
後年更新された鳥居に改造の歴史を記載したものと考えられるかもしれません。ちなみに現在の社は嘉永4年の回収のものが残存しているのだそうです。
もし、この鳥居がその時以来のものであれば、ちょっと鳥居をくぐるのが恐ろしい・・・
お参りを済ませて、昼飯はこの間のつけ鴨うどんでうどんでなく、蕎麦を注文。自分の好みからは蕎麦が少し柔らか過ぎる感じがしました。
食事後、中池見に向います。
※ 時宗(時衆)
創立は鎌倉時代、開祖は一遍。一遍の死後、消滅したが、一遍の門徒の他阿真教が再興。他阿が気比神宮の周りの沼地を整備するために、自ら砂を運んだ。(現地標示およびWikipedia )
※2 芭蕉の句に下記のものがあるそうです。
「月清し 遊行のもてる 砂の上」