1月5日の話の続きが残っていました。
神田明神でお祓いと、博物館の神田祭りのお勉強を終えて、湯島天神に向います。
湯島天神は子供の受験などで、お参りに行くようになりましたが、東京に住んでいた時、お参りしたことがありました。
たまたま行ったのか、なにか娘のために、お祈りにしに行ったのかは定かでないのですが、長女をバギーに乗せてお参りしたことを覚えています。
その時、同じ様に外人夫婦が赤ちゃんをバギーで連れてきていて、その可愛さに周りの参詣客の人気を集めて、うちの娘には誰も見向きもしない・・・
うちのもそこそこ可愛いんだけど、とひがんだりして・・・などと、と下らないことを覚えています。
湯島天神(湯島天満宮)の公式サイトの縁起の記述をお借りします。
「湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建。天之手力雄命を奉斎したのがはじまりとされます。
降って正平十年(1355)二月、郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀した。
太田道灌により、再興され、天正十八年(1590)、徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉った。
その後、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの学者・文人の参拝がたえることがなかった。
将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。
明治五年(1872)郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格した。」現在は別表神社となっています。
神田明神はオジサン、オバサンのお祓いと言う感じでしたが、湯島天神では当然のことですが、若い、学生たちがお祓いにならんでします。
奥さんがお守りをもらいに並んでいるあいだ、屋台で売っている「塩大福」が気になって屋台の脇で見つめていました。
昼飯前だから、我慢しようと、葛藤していたのです・・・
それにしても、合格絵馬が半端でない量で、並んでいました。
お守りを購入した奥さんと合流して、男坂から降りて、少し遅い昼食にうどんを・・・
以前から行きたかった岩崎邸(東京都公園協会)にたどり着きます。東京都公園協会サイトの説明をお借りします。
「旧岩崎邸は1896年(明治29年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられました。英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので、現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。
木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。
館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。 」
「ジャコビアン」とはジェームズのヘブライ語読みで、イングランド、スコットランドにおけるエリザベス時代に続く、ジェームズ1世の治世期間(在位:1603年 – 1625年)に流行した傾向を示す。(Wikipedia)
ジョサイア・コンドルについては東大塾「東大情報」という面白いサイトで東大に関する事項として記事があります。下記に抜粋します。
「ジョサイア・コンドル氏はイギリスのロンドン出身の建築家です。1877年(明治10年)にお雇い外国人として来日。
お雇い外国人とは、明治初期に欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために招いた人物のことです。
コンドル氏の身分は『工部大学校造家学科教師、兼工部省営繕局顧問』といい、月給350円(年俸4200円)で日本政府に雇われました。
当時の給与水準が総理大臣や教授で400円、学校の教員や民間の工場労働者で5円、小学校の校長先生で10円だったことを考えると、いかに高給だったかが分かります。
コンドル氏が設計した建物の中で、特に有名なのは鹿鳴館でなないでしょうか。みなさんも教科書などで耳にしたことがあるのではないかと思います。
鹿鳴館は、1883年(明治16年)に完成しましたが、建築物としての評価は高くありません。
コンドル氏は、西洋建築がどうすれば日本に合うのかを考えた結果、ヨーロッパとアジアの中間にあたるインド・イスラム様式を用いることにしました。
しかし、ネオルネッサンスとインド・イスラム様式を併用したことは、様式的には失敗とされています。
コンドル氏は、1884年(明治17年)教え子である辰野金吾氏の工部大学校教授就任により、工部大学校を解雇されます。
工部大学校造家学科教師としての役目が日本人の建築家の育成であったことから、その役目を終えたためということになりますが、解雇という言い方はちょっと、どきっとします。
その後、コンドル氏はイギリスに一時帰国をします。
しかし、友人もすでにいないこと、イギリスの建築はコンドル氏が学んだヴィクトリア・ゴシック様式からクイーン・アン様式へと流行は変わっていたことなど、コンドル氏を囲む環境は温かいものではありませんでした。
この帰国がきっかけでコンドル氏は日本永住を決意したと考えられています。
再度、日本の地を踏んだコンドル氏は、1890年(明治23年)、三菱会社の顧問に就任し、邸宅作家として活躍をしていきます。
コンドル氏は、67年の生涯でおよそ80の作品を残しましたが、その中で評価が高いものは、岩崎家茅町邸(岩崎邸)、三菱一号館、三井倶楽部、ニコライ堂などがあげられます。
現在、岩崎家茅町邸は財団法人東京都公園協会が管理し、コンドル氏が設計した洋館・撞球室・和館を見ることができます。
三菱一号館は、1968年(昭和43年)に解体されましたが、2010年(平成22年)に当時の設計図面や保管部材を使用するなどして明治・大正期の姿を忠実に復元し、三菱一号館美術館としてオープンします。
三井倶楽部は、会員制の倶楽部で三田にコンドル氏が設計した綱町三井倶楽部本館が現存、ニコライ堂は、千代田区に現存し、重要文化財に指定されています。 」
小樽の日本郵船の博物館で知ったジョサイア・コンドルとその弟子たちの片山東熊、辰野金吾、曽禰達蔵、佐立七次郎達の時代と建築物に興味を惹かれて建築物巡りも自分の楽しみの一つになりました。
美術巡りと同じように、今までなんとなくの趣味の範囲だったのが、記事を書くために調べることで、少しだけでも知識ができてきて、面白さが増してきた様な気がします。
岩崎邸は邸内は撮影禁止でした。邸内の見学が終了して、庭園に出て写真を撮ります。
庭園は今の時期ですから、色気が少ないけど、桜の時期とか、紅葉の時期に来ると綺麗なのかもしれません。
岩崎邸をでて、夕暮れ迫る不忍池にでてきます。
池を横断する桜並木を歩き始めると池の鴨が、泳いで付いてきます。餌をやるなとは書いてありますが、餌を投げてしまう人もいて、きっと期待しているのでしょう。
岩崎邸をでて、夕暮れ迫る不忍池にでてきます。
池を横断する桜並木を歩き始めると池の鴨が、泳いで付いてきます。餌をやるなとは書いてありますが、餌を投げてしまう人もいて、きっと期待しているのでしょう。
中間にある弁天様に行列ができていますが、列の最後尾に警備員がついていて、皆を追い払っています。
弁天様のお堂が17時に閉門して、お参りできなくなるのだそうです。
懸命に皆を追い払っている警備員のバックをとって、知らん顔して、列に並びますが、連携悪く、奥さんがディフェンスの真正面にでて、ひっかかってしまってしまい、自分も見つかってしまいます。
今度また来てみようと話しつつ、しょうがないかと列を離れますが、それでも、立ち去り難く見ていると、視線を感じます。
警備員さんが、目立たない様に入れ、入れ、と目で合図してくれていたのでした。
一緒に最後列に並ぶことの出来たおじさん、なんと朝、田端を出発点として、谷中七福神を廻ってきて、最後の弁天様でアウトになるところだったとのことでした。
東京には信じられないほど多くの七福神があちこちにあるようですが、その中の谷中七福神というのは下記になるのだそうです。(谷中銀座商店街振興組合)
七福神 | 神の特性 | 寺社 | 場所 |
---|---|---|---|
①福 禄 寿 | 人望 | 東 覚 寺 | 北区田端町326 |
②恵 比 寿 | 正直 | 青 雲 寺 | 荒川区西日暮里3-6-4 |
③布 袋 寿 | 大漁 | 修 性 院 | 荒川区西日暮里3-7-12 |
④寿 老 神 | 長寿 | 長 安 寺 | 台東区谷中5-2-22 |
⑤毘沙門天 | 長寿 | 天 王 寺 | 台東区谷中7-14-8 |
⑥大 黒 天 | 富財 | 護 国 院 | 台東区上野公園10-18 |
⑦弁 財 天 | 愛敬 | 弁 天 堂 | 台東区上野公園2-1 |
上野駅の手前で、大行列ができていました。列に並んでいる人に聞くと、ツターンカーメン展の順番待ちをしているということでした。
ちょっとぞっとします。
どこかでご飯を食べるのも面倒で、千葉のそごうで買い物して、家に帰って食事にすることに・・・