永源寺

11月23日は余り天気が芳しくなくて、出かける気にならず、土日に行事が続いたし、お休みして、24日、25日に紅葉狩りに充てようと・・・

明けて、24日(土)はいい天気です。朝からテレビの番組で京都の紅葉特集をやっています。a018

京都は25日(日)に検討することとして、今日は湖東三山の先にある、永源寺に行ってみようと・・・

と、言いつつ、いつもの様に、野坂にするか、己高山、鶏足寺にするか、三井寺にするかなどの朝の葛藤があって、決めきれない感じで出発します。

湖東まで行けば、幾つかのお寺廻れるし、いいかと。

西明寺、金剛輪寺、百済寺の湖東三山は2年かけて、お参りしました。

紅葉時期、天気具合が必ずしもよくなかったし、お参りした時間帯も遅くなってしまったりと、いずれも好条件ではなかった記憶があるので、再度お参りしてみたい気持ちがあります。

車で走り始めると道路に高速道路の混雑状況の案内が、ところどころにでてきます。

京都方面は20km近い渋滞が起きているようで、京都か大津を目指していたら、どつぼだったなと一安心。

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でも明日は京都と思っていたので、これは京都は避けるべきか、あるいは電車で行って、歩くかと・・・

結局、日曜日はあまりにも天気がよかったので、久しぶりの野坂山の魅力が紅葉に勝ってしまたのですが・・・

時間の計算をしておらず、出発が10時近くになってしまったうえに、下道で行こうなどと考えたため、米原のあたりで12時に近くなります。

いつも予定は欲張っていて、お寺のハシゴを考えていますが、実際には一つのお寺で2時間から3時間はかかるので、次のお寺の拝観時間に間に合わないということを繰り返しています。

米原方面からくるとまずあるのが西明寺、大勢の人が歩いていますが、駐車場は余裕がありそう。少し通り過ぎた所にも駐車スペースがあるのを確認。

永源寺の後に時間があったら来てみよう・・・金剛輪寺の標識がある交差点を、通り過ぎようとして唖然とします。

交差点を曲がってお寺の駐車場に向うのですが、曲った途端に行列ができていて、動いていない様子。

西明寺で人はおおそうだけど、余裕はありそうとかんがえていましたが、この様子だと京都だけでなく、湖東も大変なことになっていそうです。

永源寺の案内があったはず、とカーナビに頼らず来てしまいましたが、湖東三山の各お寺の案内はあるのですが、永源寺の文字が見当たりません。

湖東三山と永源寺の位置関係はなんとなく判るので、百済寺を目指します。百済寺への曲り角にようやく永源寺の案内がありました。

暫く行くと永源寺こちろの標示があり、橋を渡ると、民家のプライベート駐車場があります。

a128門前の雰囲気が感じられないので大分歩きそうだなと、さらに車を進めると、右手に、ここが門前で一番近い駐車場と記載があります。

ところが満杯で、両手に持った旗を交差してバッテンマークをされます。

よし、戻ろうと頭を突っ込んでUターンをしようとしたら、危険だから駄目だ、先に行けと・・・

a136先に進むと、永源寺の入り口のあたりには大勢の人が歩いていて、Uターンは難しそう。

門前を通り過ぎて傍を流れる愛知川を渡る橋を渡ります。橋を渡った突き当たりがお寺の駐車場で左右に車の大行列ができています。

右に行くと八日市IC、左側が三重のいなべ方面に抜ける道のようです。両側の行列に睨まれながら、間を通り抜けたとたんに、駐車場が空きます。

周囲の状況を一瞬忘れて、色気をだしたのですが、その雰囲気が、行列でイライラしている車に敏感に伝わり、クラクションの砲火を浴びます。

しかたなく?右に曲がって、百済寺側に戻ってアクセスしよう。民家の駐車場を利用すれば行列ゼロで駐車できるんだからなと。

右に曲がって走りだすと、八日市場ICからの車が並んでいる行列が、とぎれません。延々と続く車の列を見ながら走っているうちに、だんだん不安になります。

先程らくらく駐車できたけど、もう、車が群がってるかもしれない・・・さっき贅沢言わずに停めていればよかったか・・・

再度、百済寺からの道にでて、民家駐車場おところにくるとやはり、ガラ空きで、なんなく停まれて一安心。ちょっと呆れてしまいます。

a164帰り道で、確認したのですが、カーナビは高速使用の条件では、八日市周りをリコメンドします。朝、高速を使っていいたら、あのとんでもない渋滞の中に巻き込まれていたのかと・・・

それにしても、京都といい、金剛輪寺といい、永源寺の表側の喧騒といい、紅葉の最盛期の恐ろしさを改めて実感しました。永源寺の場合は寺側の工夫で、もう少し、やり方があるのではないかと思いますが・・・

それはともかく、駐車場で500円を払って、永源寺にむかいます。

永源寺は臨済宗永源寺派の大本山。開基は南北朝時代の1361年、近江の領主佐々木六角氏頼、寂室元光禅師(正燈国師)による開山。

以下、永源寺公式サイトといただいたリーフレットの内容を参考にさせていただきます。

「寂室禅師は唐に渡って天目山の中峰和尚の教えを受けた。

帰朝してからは全国そ行脚を続けられ、72歳の時に氏頼に乞われて、永源寺の開山に当たる。

寂室禅師が開山されると、その高徳を慕って二千人あまりの修行僧が集い、山中には五十六坊の末庵を有したとされています。

寂室禅師は76歳で入滅されるまで修行僧の教化に勤められました。

師の滅後も、高弟が教えを守り永源寺を受け継ぎ、応仁の乱の頃には、横川景三といった京都五山の名だたる僧達が、この地に戦難を避けて修行をされました。

しかし、戦乱によって、伽藍や山内の幾多の寺院は全て焼け落ち、以後寺運は衰退します。

江戸時代中期になり、妙心寺の僧、別峰紹印禅師が、永源寺が無く荒れはてていることを嘆き、復興のために尽力します。

さらに、別峰紹印禅師の弟子の空子和尚が永源寺第79世住職となり、名声高き一絲文守禅師(仏頂国師)を懇請して第80世として迎えることになります。

これにより後水尾天皇をはじめ、東福門院(徳川和子)が帰依。また、彦根藩(井伊家)※の庇護ををうけて伽藍が再興され、法燈が輝きます。

※帰りがけに気が付いたのですが、参道わきに山に登って行く道があり、井伊家の墓所がありました。

明治になり、政府の指導によって、はじめ臨済宗東福寺派に属しますが、後に永源寺派として独立します。

坐禅研鑽、天下泰平、万民和楽を祈る道場として、全国百有余の末寺を統轄する一派大本山となり、今に至ります。 」

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寺域はあまり広いとは言えないけれど、参道と方丈の周辺の紅葉の美しさはなかなかのもので、湖東三山と比較してもそん色はないというか、大分明るい感じがしてお気に入りになりました。

前記したように、湖東三山をお参りした時は天候が良くなかったこと、時間帯が遅かったことなどがあり、、今日の様な明るい陽射しの下を歩く場合とは印象が大分違うとは思います。

経堂、法堂などに囲まれた中庭の紅葉の見事さに、大勢のカメラを構えた人達が写真を撮り続けます。

ということで、自分も同じ場所の写真がつづきます。お茶室があって、お抹茶を御馳走になります。

中庭に、巨大な紅葉(楓?)が大きく枝を広げ、はるか向こうの山が借景になって、落ち着きます。

なかなか去りがたく、案の定、次に湖東三山のどこかに、というささやかな計画はとん挫して、今日は永源寺で満足して帰ろうと諦めます。

門前の土産物屋に、こんにゃくがならんでいます。「永源寺こんにゃく」は当地の名物らしい。近畿農政局「再発見!滋賀の伝統野菜」の記事をお借りします。

「永源寺こんにゃく」の由来は、永源寺の開山、寂室元光禅師が中国から種芋を持ち帰り、禅僧達の食事として作られるようになったのが始まりと伝えられています。

この永源寺で作られていたこんにゃくが、門前の農家に広まっていきました。

70年ほど前から永源寺にお参りに来る人の土産として販売が始まり、味が良いことから永源寺のこんにゃくとして名前が知られるようになりました。

永源寺町のこんにゃくいもは、茶畑の間で栽培されています。こんにゃくいもとお茶との混植は、滋賀ではこのあたりだけではなく、お茶を栽培しているところでは広く行われていました。

永源寺には有名な「政所茶」があり、昔から永源寺周辺はお茶の栽培が盛んで、その茶畑の間でこんにゃくいもも、栽培されていました。

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現在では、出荷するためのこんにゃくいもの栽培は、休耕田などで行われており、茶との混作は少なくなっていますが永源寺の門前の高野地域などでは、今も自家用として茶畑の間にこんにゃくいもが栽培されています。」

大ぶりのボール状のこんにゃくと隣にあった赤いこんにゃくもお土産に購入。

赤こんにゃくは由来によると左義長祭の赤い火を象徴する食べ物として、赤く染める様になったとのこと。

赤色の元は鉄分(Fe2O3)を添加して着色しているのだそうです。 気のせいか確かに鉄というのかサビというのか独特の風味がありました。

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駐車場に帰る途中に庭の紅葉が綺麗な喫茶店があり、ケーキセットで紅茶で一服、敦賀に帰りました。

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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