トゥールーズ=ロートレック展

10月14日、夜は銀座「天國」で「21年目の親睦会」でした。(って、今頃10月かよ・・・)

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三菱一号館美術館

14時から神田のお客さんとの打ち合わせを設定して、自分の調整能力に惚れ惚れ・・・

のところが、お客さん、急遽お国に呼ばれて、打ち合わせになりませんでした。

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三菱一号館美術館

時間はたっぷりあるので、神田から三菱一号館美術館経由で銀座まで歩こうと。

開催されていたのはトゥールーズ=ロートレック展 でした。

トゥールーズ=ロートレック展ちらし

自分はどちらかというと風景画が好み(だと思うの)ですが、でも、自分の部屋に飾られている絵は8枚中5枚が人物を描いた画で、風景画より多い。(その他に9枚の仏像の写真がありますが・・・)

世間的には人物画の方が好まれるのでしょうか・・・展覧会のショップで売っている版の小さいコピー絵の中で風景画でいいなと思うものが少ない・・・

というのか、あってもスケール感の違いとか色彩のバランスが随分違う感じがして手がでないというのもありそうですか・・・

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トゥールーズ=ロートレック展ちらし

人物画の場合には表情、ポーズ、置かれた場面など、画のスケールと関わりなく感ずることができるというようなことがあるのか・・・

画家の真の意図とは異なるものだとは思いますが・・・

何故、人物画の方が多いのだろう・・・と、無理やり理屈づけてるような気がします・・・

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エグランティーヌ嬢一座(part) 1896年 上のポスターの絵

ロートレックというと、それこそ人物、しかも華やかなパリの裏で生きる人達、その内面のわびしさ、滑稽さを描いている・・・という勝手な思い込みがありました。

そういう面もあるし、でも、むしろ劇場やキャバレーのスター達を描き続けていた画家だったようです。

また、 ロートレックの初期の作品には風景画や動物等を描いた油彩画があることを本展で知りました。

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エグランティーヌ嬢一座(part) 1896年 上のポスターの絵

ロートレックの名前を広く世の中に知らしめたのが下のムーラン・ルージュの初ポスターなのだそうです。

絵として見ていいなと思うけど、文字や影の人物の構図などポスターとしての機能にも魅せられます。展覧会の説明には「グラフィックデザイナーの先駆者」という言葉があります。

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ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ 1891年

ロートレックは1864年、フランス南西部の古都・アルビにおいてヨーロッパでも由緒のある大貴族トゥールーズ=ロートレック家の嫡男として富裕な家庭に生まれます。

自分には聞きなれない「トゥールーズ=ロートレック」という名前ですが、ロートレックの名前は正確にはアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)でトゥールーズ=ロートレック全部が姓に当たるとのことです。

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ディヴァン・ジャポネ 1893年

13歳で左の、14歳で右の大腿骨を折る、という二度の事故のあと、上半身は成長するも脚の成長が止まり、身長が150cm程度しかなかったのこと。

現在では骨粗鬆症、骨形成不全症などの病気であったのではないか、それも名門故の血族結婚による遺伝子の影響があるのではと考えられているのだそうです。

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ジャヌ・アヴりル(ジャルダン・ド・パリ)

ロートレックは幼少の頃から虚弱体質で、療養生活を強いられ、大学まで進学しますが、絵の道を生きることを決断し、大学を断念します。

1882年、絵を学ぶため、パリにでてきますが、時代はマネ展(マネとモダンパリ展)で自分が学んだ、万博の開催により国際化し、パリ大改造により、街が変貌して行く19世紀末ということになります。

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コンフェッティ(part) 1894年

モンマルトルのアトリエに腰をすえて絵の勉強を続けるロートレックは、1885年、21歳の時、大歌手であるアリスティード・ブリュアン(一番上のポスターのモデル)の開く酒場に顔を見せ、ブリュアンと出会います。

二人は意気投合し、ブリュアンはロートレックの作品を自分の店の広報誌に載せたり、酒場に油絵を飾り、お客に紹介してバックアップします。

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『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌(part)1895年

同時期に、画家達のモデルをしていた当時18歳のマリアと親しくなり、ユトリロは彼女の画才を見抜き画家になることをすすめます。

 ユトリロがシュザンヌと呼んだその少女は画家として有名になります。

この少女がユトリロの母親、シュザンヌ・ヴァラドンで、このとき、すでに2歳になるユトリロを連れていたのだそうです。 (”モーリス・ユトリロ展 続き”)

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メイ・ベルフォール 1895年

1886年、パリに出てきたゴッホと同じアトリエで出会い親しくなります。

さらに、ロートレックの子供のころの親友モーリス・ジョワイヤンと再会します。ゴッホの弟の画廊を引き継いだジョワイヤンは、1890年に、浮世絵と日本の浮世絵絵本展を企画します。

ロートレックはジョワイヤンを手伝い、この展示会の準備のために働き、日本芸術の紹介に努めます。

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マルセール・ランドール嬢、胸像 1895年

ロートレックはゴッホと同じように浮世絵の魅力に囚われ、その手法を自分の作品に取り入れていきます。

ロートレックが亡くなった後、ジョワイアンはロートレックの作品を管理し、ロートレックの故郷のアルビに美術館を作ります。

1891年、27歳の時に先に述べた初のポスター「ムーラン・ルージュ ラ・グーリュ」を制作し人気作家となって行きます

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54号室の女船客 1896年

翌年から石版画の製作に取り組み、ムーラン・ルージュのカタログ総数の387点のほとんどを1898年までの7年間に製作しているのだそうです。

1897年、新しいアトリエを構え、段々ポスター制作から離れ、石版画に熱中していきます。

このころからロートレックの飲酒が深くなり、 翌年の冬あたりから幻覚症状を起こし始め、1899年にはアルコール中毒が原因の発作を起こします。

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ジャヌ・アヴりル(part) 1899年

ロートレックの母親は治療のため彼を監禁することを決意。ロートレックを拉致して、精神病院に入れてしまいますが、ジョワイヤンら友人らの奔走もあって、退院。

絵画の制作を続けるも、36歳になって、再び飲酒癖が始まり、健康が蝕まれていきます。性病も患っていたという話もあるようです。

1901年、8月20日、発作の再発。母親の購入したマルロメの城館で、9月9日に37歳で息を引き取ります。

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三菱一号館美術館

ロートレックが果たした石版画の追求は、20世紀絵画の様々な方向性を示すこととなり、後世の画家に影響を与えます

ピカソが19歳の時描いた「青い部屋」は、ピカソ自身の部屋を描いたものなのだそうですが、部屋の奥の壁にロートレックのポスター「メイ・ミルトン」が貼られているのが見えています。

外にでるともう暗くなっていました。

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三菱一号館美術館

時間はまだあるのでのんびりと歩いて行きましたが、「天國」にたどり着くともう皆さんお揃いでした。

※下記のサイトを参照させていただきました。
トゥールーズ=ロートレック展
ロートレック美術館(Musse Lautrec):越前屋(郡上八幡)
ヴァーチャル美術館
Wikipedia”アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック”
“美の巨人たち”

くまじい
阿佐ヶ谷生まれの73歳

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