7月20日、病院からの帰りの続きです。
県立美術館をでて、さあ今度こそ帰るぞと車を走らせていましたが、武生を過ぎようというところで、前から気になりながら、行ったことのなかった「湯楽里」の看板を見て、右折します。
湯楽里の入り口で写真を撮ろうと車を降りると「金森左京家白崎陣屋址」の標識があります。
なんだろう・・・
金森長近については大分前に「大野の殿様・・・高山、美濃」という記事を書いたことがあります。
この時参考にさせていただいたのが「金森戦記」です。再度、整理、補填すると下記のようになります。
金森長近は一向一揆との戦い等で、信長に認められ、大野に封ぜられ、大野城築城と大野の街並みを整備します。
本能寺の変後、勝家と秀吉の緊張が高まった時には前田利家と共に柴田勝家の使いとして秀吉に交渉に行きますが、逆に秀吉に懐柔され、戦線から離れ秀吉に恭順の意を示します。
勝家亡き後、秀吉に重用され、越中(佐々成政)、飛騨(三木自綱)調略に功績を挙げ、大野から飛騨に移封になり、現在の飛騨高山の街を造り上げます。
秀吉が亡くなると、長近はかねてより親交のあった家康に付くようになり、関ヶ原では、東軍に属します。戦の後に家康より美濃を与えられ、美濃の街並みを整備します。
長近は養子可重に高山を譲り、自分は美濃に居を構えます。
後に、敦賀の豪商打它宗貞が、金森長近の家臣で長近にともなって、大野から高山に行き、鉱山奉行になった人間であることを知りました。(「敦賀0919 金崎宮」)
打它宗貞はしかしながら金森家第5代頼業に疎んじられ、長近の死後、生命を脅かされて飛騨を出奔、流れて最後に敦賀にたどり着き、商人として成功することになります。
この時「飛騨の歴史再発見」を参考にさせていただきました。
ここ白崎陣屋址には、自分の知っていた金森家のその後のストーリーがありました・・・
金森家は107年(6代)に渡り、高山を治めますが1692年(元禄5年)に出羽の上の山に転封、さらに5年後に郡上八幡に移封されます。
高山時代の第3代重頼が家督相続の時に、弟の重勝が禄を与えられ、金森左京家を興し、金森家の旗本家として仕えるようになっていました。
郡上八幡に移り、第7代頼錦の時に、郡上一揆(郡上宝暦騒動)が起こり、その責任を取らされて、1758年(宝暦8年)、金森家は改易、所領没収されます。
しかしながら、家康以来の名家、金森家の名を惜しんだ幕府は金森左京家に3千石を与え、1759年に越前国、白崎村をはじめとした、南条郡、今立郡7ヶ村を与えた。
ここ白崎の地に陣屋が造られ、1767年に金森左京家第4代可英が入府。
金森左京家は大名と同列に遇され、この陣屋から参勤交代の行列が江戸に向っていたのだそうです。
金森左京家の治世が明治まで続きます。
郡上八幡は以前から行きたいと思っていた街でしたが、金森家に関わりがあることは知りませんでした。
偶々、訪れた大野と美濃が金森長近で繋がりがあることを知り、面白いなと思いましたが、ここで郡上八幡との関わりを知り、これはどうしても郡上八幡を訪れなければと決意を新たに・・・と言うほどのことでもありませんか・・・
日野山を望む鳥居に夕暮れが迫っています。さあ、お風呂、と「湯楽里」に向うと、休館日・・・
帰る途中でいつもの「道の駅」で敦賀半島を狙います。
陽が水平線に向って降りつつありますが日没にはしばらく待つ必要がありそうです。
野坂は厚い雲に隠れて姿を見せません。その後、雲の状態が変わったら車を止めて写真をと思いましたが雲が切れることがありませんでした。